出版されたばかりの『村上春樹雑文集』を抱えて特急にのりこんだ。「
ノルウェイの森」の稿で述べたように、わたしは村上春樹の小説を苦手にしている。ただし、随想については、比較的好んで読んできたほうかもしれない、と書こうとして、しばし再考するに、やはりそれほど読んでいませんね。同じ村上なら、龍さんのほうのエッセイをよく読んだでしょう。サッカーについて、村上龍は少なからず批評を残してますからね。春樹さんの場合、音楽のエッセイだけは気に留めてきた。若い頃、自らジャズ喫茶を経営していただけのことはあって、龍さんよりもはるかに造詣が深い。『意味がなければスイングはない』がジャズ系音楽批評の代表作だが、『村上春樹雑文集』にも「音楽について」の章があり、そこからぼちぼち読み始めた。「ビリー・ホリディの話」は傑作だね。これが、ジャズだ・・・ところが、他のいくつかの随想(とくに音楽以外の作品)については、途中で読むのをやめてしまう場合があった。じつは、これまでもかれの「雑文」を読みながら中途で読書を放棄し、眠りに落ちてしまうことを何度も経験している。特急列車の自由席でもまた、わたしは静かに眠りに落ちた。
村上春樹は自らを「長編小説家」と呼ぶとおり、長い文章を書く小説家だ。それが批評・随想・紀行文などにも影響している。『意味がなければスイングはない』はとても面白い音楽批評だが、一篇一篇がなにぶん長いので、途中でへこたれそうになる。「文章はリズムだ、グルーブ感だ」と彼は『翻訳夜話』で書いていたけれども、いくら躍動感のある即興演奏でも、同じパターンなら飽きてくるでしょう。心地よい振動の電車に揺られているようなもんだから、読んでいくうちに睡魔に襲われ、本をおいて目を閉じてしまうのである。だから、眠りたいときには、村上春樹を読むのが良いとさえときに思う。(雑文の)文章が長くても、それを読破させる筆力のある文筆家はいくらもいる。立花隆や陳舜臣を読むと、途中で「もういいや」と本を放り出すのに、司馬遼太郎だと、長い作品でも吸い寄せられるように活字をおうのはなぜだろうか。
研究者の文章だと思ってしまうのである。村上春樹は知識が無限で、思考は論理的で、喩え話もうまいけれど、少なくとも「雑文」を読む限り、文章が説明的で分析的すぎるし、洒落た修辞が散りばめられているわけでもない。つまり、論文を読んでいるような錯覚に陥るわけです。小説家とかエッセイストと称する人びとは、われわれ研究者をはるかに凌ぐ「文章のスタイリスト」であってほしい。村上春樹は、短編小説を紹介する著作のなかで、吉行淳之介を「文章のスタイリストとは言えない」と評していた。春樹さん自身は「文章のスタイリスト」かもしれないが、あんまりお洒落なスタイリストではなくて、そこに私の不満があるのだけれども、それこそがかれの文体の魅力なのだと主張したい読者も少なくないことだろう。
特急列車の自由席で眠りから覚め、隣に目をやると、白髪の老人がシートにもたれかかっていた。老眼鏡をかけたまま眠ってしまったので、目を見開いても、その像はぼんやりしている。ぼんやりしているが、その老人が疲弊していることは十分みてとれた。顔色が悪い。眉間や頬に皺が目立つ。その老人も眼鏡をかけていた。わたしのような太縁ではなく、細くて黒いフレームの眼鏡だった。
- 2011/02/24(木) 12:21:04|
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