
富田林寺内町が重要伝統的建造物群(重伝建)に選定されたのは1997年のことである。寺内町としては、奈良の今井町と大阪の富田林が双璧であって、いずれも日本屈指の町並みを誇っており、学生時代から評判が非常に高かった。だから、感覚としては、もう少し選定は早かっただろうと思うのだが、今井町が93年、富田林はさらに遅れて97年だとネット上のデータは語っている。京都の産寧坂、嵯峨野鳥居本などは70年代の選定だから、二つの寺内町は京都に20年も遅れをとったことになる。しかも、大阪府内の重伝建は富田林一ヶ所だけ。この点において、鳥取と大阪は同格ですな。
ひるがえって、富田林寺内町を学生時代に訪れたような、訪れてないような・・・記憶が曖昧なので、今回視察行程に組み入れた。灯台もと暗しで、奈良近辺の有名な建造物(群)を案外みていない。だって、地方に行けば、ホテルに泊まり、そのままレンタカーを借りて(カーナビを頼りに)あちこちまわるのだが、奈良に帰ると、家でのんびりしたいし、あるいはまた、家事に勤しむ必要があったりして、あまり出歩けないのである。

近鉄電車に乗り換えて、富田林に着いたら昼過ぎ。お腹が空いていた。駅前の観光案内所で訊くと、重伝建エリアのなかに蕎麦屋があるという。町並み見学はさておき、とりあえずは蕎麦だ。美味しい蕎麦さえ食べていれば機嫌のよいわたし。急ぎ足で「八町茶屋」という蕎麦屋をめざした。店内で「ざる」の並を頂戴した後、裏庭のテーブルでコーヒーと「河内名物あかねこ餅」もいただいた。「蕎麦を食べてくださったから、コーヒー代は結構です」とのこと。良い店ですね。みなさん、富田林の八町茶屋をよろしくお願いします!
さて、街にでよう。寺内町というのは、戦国時代に浄土真宗の門徒が集住した環濠集落で、もちろん信長などの権力者と敵対したわけだが、富田林は本願寺に与しなかったことで焼亡を免れたらしい。防御性に重きをおいた集落であり、民家は土蔵造、塀の上には長い「忍び返し」(↓)がめぐらされている。なんだか、中国を思いおこした。町家が少ない。ここにいう「町家」を、ミセをもつ都市住宅だと定義するならば、富田林の大半の住まいは「町家風の和風住宅」ではあるけれども、「町家」そのものではないのである。ただ、醸造・酒造業は江戸時代から盛んだったようで、酒蔵・醤油蔵が目につく。


ミセのない住宅群の伝統は、いまに受け継がれていて、ひろい範囲を歩いてみても、店舗や食事処は非常に少ない。地方の重伝建を訪れると、あまねく土産物店が軒を連ねているのに対して、富田林にはそれがないのである。おそらく商売をする必要がないのであろう。観光は要らないのだ。天王寺まで30分。ベッドタウンとして最適の条件にある。
そんな商売っ気のない町を徘徊し、ようやくチャレンジ・ショップらしきお店をみつけた。どうやら味醂蔵のコンバージョンらしい。その蔵には「紅梅蔵」という名がついていて、「里庭」「23番地」「月桃」という3つのお店が入っていた。そこでうろうろ商品を眺めていたのです。すると、背面から声をかけられた。「センセェ!?」。聞いたヤな声だ・・・
あっ、ヤノッチではないか。環大1期生のヤノッチ。エミコさんと付き合っていたヤノッチ・・・
「おっまえ・・・あれっ・・・エミコさんは?」
「別れました、2年前に。」
「で、いまは?」
「あっち(を指さす)」

というわけで、ヤノッチとヤノッチの新しい彼女を誘い、「月桃」の中2階にあるカフェでしばし歓談。いまヤノッチは桜井市で林業の仕事をしているという。桜井といえば、纒向ではないですか。もちろん2009年秋の纒向フィーバーについてもお知らせしたわけです(ヤツはなんにも知らなかった)。あまり長話すると、彼女に申し訳ないからと、いったんわたしだけ店を離れて、町並み見学を続けたんですが、小雨が降ってきた。良い写真が撮れませんね。仕方ないから帰ろうと富田林駅に向かっているところで、また「センセェ!?」。ヤノッチの軽バンでした。小雨のなか、彼女には軽バンの助手席を譲っていただきました。
助かりましたよ。最後に握手して、「鳥取に遊びに来いよ」と声をかけ、こんどこそお別れ。
どこでだれと会うかわかりませんねぇ。向こうは女連れで、わたしは一人。あぁ、悔しい。と言いながら、こっちに連れがいたりしたら、却ってやばいわな。
- 2011/03/09(水) 00:26:45|
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