中国の大地震報道 さきほど上海出張から帰国した。
またか、と思った。1995年1月17日、あの呪わしい阪神淡路大震災の日、タイでの国際シンポジウムを終えたわたしはバンコク空港を飛びたち機上で大地震発生の情報に接し、一時着陸したマニラ空港で燃えさかる神戸の街の映像をみた。2001年9月11日はマレーシアのホテルにいた。やはり帰国の日だった。アメリカ同時多発テロ事件勃発の一日である。「これは戦争だ」というブッシュの宣言に、暗黒の未来を予感した瞬間でもあった。
そして、2011年3月11日。わたしの乗るCA922便は午後1時40分に関空を飛びたち、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生したという午後2時46分ごろ、中国製の淡泊な赤ワインを飲みながら機内でランチをとっていた。もちろん地震のことなど知るよしもない。上海の浦東空港に着陸したのは中国時間の3時(日本時間の4時)前。1時間ばかりで入国手続きを終え、噂のリニアモーターカー(磁浮列車)に乗った。上海を最後に訪れたのは2002年秋まで遡るので、2005年開通の「磁浮」に乗るのは初めての体験だった。最高時速431㎞。龍陽路駅までの乗車時間はわずか7分である。そこからタクシーでホテルに向かい、チェックインして小一時間休息をとった。ここでテレビを点けていたら、もう少し早い対応ができたかもしれない。
今回の上海行は私費出張だが、研究の目的は「里弄」の視察と決めていた。租界都市上海に特有な路地を「弄(ノン)」と言い、路地を軸としてまとまった小地区を「里弄(リーノン)」と言う。すでに日が暮れていたが、わたしは豫園商城をめざすことにした。豫園(よえん)は上海一帯が租界都市になる以前から街があった「上海老城」の中心的位置を占める庭園で、その修復を同済大学時代の指導教官、故陳従周先生が担当した。豫園のまわりに迷路のように小路がめぐり、その両側にびっしりと店舗が軒を連ねる。厳密にいうならば、これらは「里弄」ではないけれども、路地であるのは間違いない。豫園商城に着いたら、まずは懐かしい「上海老飯店」で上海料理を食べ、それから路地の商店街をぐるぐるまわろうと決めていた。
豫園をめざすタクシーの車内で、運転手が突然話題を変えた。
「オウッ、リーベン・デ・ダーディチェン・タァイ・リ~ハイッ・・・アッ!」
えっ、リーベン・デ・ダーディチェン(日本的大地震)?
「日本で地震があったの?」
「なぁんだ、なんにも知らんのかい。東京で大地震さ。マグニチュード8.9だ」


東京でマグニチュード8.9の大地震(当時の報道では8.8だったが、運転手は8.9と述べた)・・・わたしの長女は東京で働いている。どうしようか、と悩んだ。運転手は、豫園商城に国際電話をかけられる場所もあるだろう、という。老飯店の夕食を簡単に済ませ、街にでて国際電話できそうなところを訊ねてみたが、まったくみつからない。Uターンするしかなかろう。
ホテルに戻って、国際電話に挑戦した。つながらない。何度かけても駄目だ。テレビのスイッチをオンにした。上海のホテルならたいていNHKのBSが映るはずだ。チャンネルを回し続けるが、日本のチャンネルは一つもない。しかし、中央電視台をはじめ、いくつもの放送局が日本の大地震の状況を特報で伝えている。「寧夏」という放送局は、ほとんどの時間を日本大地震の報道に割いている。驚いたことに、中国でも、同じ3月11日、雲南省で震度5クラスの地震が発生していた。日本と雲南の地震に相関性はあるのだろうか?
大地震はたしかに東京の交通を停止させているが、被害の中心が東北であることはすぐに理解できた。そうこうしているうちに、不安定ながらネットに接続できた。東京の長女にメールが通じるとは思えなかったので、奈良の家族の携帯アドレスにメールをいれた。しばらくして、長男から返信が届いた。東京の長女は無事だが、家に帰れないので、会社に泊まるという。鳥取のエアポートやタクオからは「チャック、ホカノ、黒帯は大丈夫です。西河♂は渋谷から船橋まで歩いて帰っている模様です」との知らせがあった・・・
ブログで中国での地震報道の状況を伝えようとしたのだが、FC2にまったくアクセスできない。地震による影響なのか、中国のネット管制なのか。あるいは、その両方なのか。
一時は帰国を考えた。しかし、帰国の便を確保できる保証はなく、また関西空港が機能しているかどうかも分からない。様子をみるしかなかろう。
これが上海出張の初夜であった。
四川大地震時における日本医療チームの支援に恩義を感じている中国は、中国赤十字救援隊を日本に派遣すると(たしか)報道されていた。
- 2011/03/14(月) 23:45:45|
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