上海アールデコ バンド(外灘)に対面する南京東路東北隅にある和平賓館の北館に入ると、「上海に戻ってきた」という実感が湧いてくる。同済大学のキャンパスよりも、このネオクラシズムのホテルに郷愁がある。1983年当時、同済大学に在籍する日本人学生はわたし一人で、他の留学生の過半数をアラブやアフリカのイスラム系民族が占めていた。当然のことながら、留学生食堂の主役は羊肉になる。北方の乾燥地域で食べる羊肉はわるくない。刷羊肉(シュアンヤンロウ)と呼ばれる羊肉(+牛肉+鳥肉)のシャブシャブは、わたし自身、好物のひとつである。一方、江南水郷の食文化は、米と魚と野菜と豚肉で構成されている。その食材の主品たる豚肉を羊肉に変えた料理ばかりが大学の留学生食堂で出てくるのである。イスラム系の留学生は、それを好んでいるようにみえた(が、結構不満を口にしていた)。わたしはそういう羊肉の料理が苦手だった。苦手だが、食べないわけにはいかない。しかし、週に一度は「まともな」ものを口にいれたくなり、和平賓館に通ったのである。

北館の8階に中華レストランがある。当時、注文するメニューはほぼ決まっていた。お金がないので、安価なものばかり選ぶ。担々麺と小龍包とモヤシ炒め(か家常豆腐)が定番であった。これが、べらぼうに美味しい。担々麺は純粋な四川風ではなく、上海風味が加わってマイルドになっている。搾菜&唐辛子ベースのスープに胡麻と酢をたっぷり絡め、酢で辛みを抑えているのである。当時は安かったのだが、今はとんでもない値がついている。同じ料理なら、上海老飯店の倍以上するだろう。それでも、わたしは、和平賓館に通うのをやめない。和平賓館の北館がいちばん懐かしくて美味しい、という気持ちは揺るがない、ということだ。
1905年ころに建てられた和平賓館の内装は、アールデコの装飾に彩られている。頽廃的なその意匠に、妙な落ち着きを覚えるのは、わたし一人ではない。今回、同行した患者は、アールデコの陰翳に包まれた瞬間、「ここを動かない」と宣言した。もう一人おなじ反応をした日本人を知っている。今からおよそ15年前、小学校6年生だった長女を連れて、北京経由で黒龍江省に入り、ツングース系漁撈民ホジェン族の調査をした。娘はあんな過酷な旅行によく耐えたと思う。帰りは上海経由にした。北京や黒龍江流域には閉口したようだが、上海だけはお気に召したらしい。宿泊した上海国際機上賓館でブランチし、和平賓館のカフェで休んだとき、「もうここを動かない」と娘は口にしたのである。


患者とともにまず8階で食事をした。運良く、窓際の席が空いていた。窓外には浦江の向こうに浦東の摩天楼群がみわたせる。スモッグに霞んだそのパノラマを眺めながら、学生時代より少々ましな料理を注文した。留学時代、浦東にはなにもなかった。90年代から恐ろしい開発が進み、ヘンテコなテレビ塔「東方明珠塔」(468m)がまず建設され、おおいに落胆したものだが、その後も超高層ビルの建設は絶えることなく続き、いまや『社長 島耕作』の舞台として欠かせない場所になっている。ここが東方アジア経済のセンターだと言っても過言ではないだろう。

食後、1階のカフェに入った。ガラスケースの向こうにおいしそうなケーキがたくさん並んでいる。ひとつずつケーキを選び、わたしはエスプレッソ、家内はダージリンを注文した。至福の時間がのんびり流れていく。こういう場合、初老の夫婦は、注文した品を半分に分ける。2種類のケーキも、ダージリンもエスプレッソもみな半分にして、4つ味の交錯をたのしむのである。
名残惜しいが、いつまでもホテルにいるわけにはいかない。北館をでると正面に南館がみえる。南京東路の東方向には浦東の「東方明珠塔」が霞んでみえた。
以上は12日のことである。その後、和平賓館から半時間ばかり歩いて豫園まで移動した。
- 2011/03/19(土) 13:33:26|
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