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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

マクタン通信(Ⅰ)

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酔って候

 夕暮れのビーチをひとり眺めていて、奇妙な感傷におそわれた。一人旅をしていると、まれにこういう心情にさいなまれる。 

 スペイン支配時代のコロニアル建築や海浜漁労民の杭上住居群をみてまわり、午後4時ころホテルに戻った。
 コテージの前にひろがるビーチでひと泳ぎし、シャワーを浴びようと思っていたのだが、ベッドに横たわると、そのまま眠りに落ち、目覚めたら陽が暮れている。コテージ前の通路にかかる庇の下のベンチに腰掛け、椰子の向こうにひろがる海をみていて、その感傷が深くおおきくひろがり始めた。 

 ここ数日、『酔って候』から『最後の将軍』を読み進めている。
 幕末に「四賢候」と呼ばれる藩主がいた。土佐の山内容堂、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、越前の松平春獄の4藩主である(薩摩の藩主は茂光だが、実権は父の久光が握っていた)。徳川慶喜はしばしばこの4候を招き、幕府勢力の最重要会議をもった。「攘夷」に揺れる当時の日本を如何に導いていくのかが、その課題であり、慶喜を含む5名は自分たちが新しい日本の方向を決めるのだと思いこんでいた。否、正確には、慶喜をのぞく4候はそう信じていた。司馬遼太郎の理解が正しいならば、慶喜は将軍職に執着がなく、龍馬の提案をまつまでもなく、「大政奉還」の用意があったという。なにより「朝敵」の汚名を着せられることを厭うたのである。権力を放棄した後の慶喜の行動は、あっぱれ見事の一言であり、明治維新の立役者は薩長土の志士ら以上に慶喜であったという理解をわたしも支持したい。
 残りの4名、とりわけ島津は自らが将軍の地位に就けるという妄想を抱いていたらしい。しかし、久光は、所詮、大久保や西郷の傀儡でしかなく、維新後にそれを知り、呆然とする。四賢候は、日本という国の未来を託されているようで、じつは下級武士たちのマリオネットでしかなく、「痛烈な喜劇を演じさせられた」のである。

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 こういう小説を読んでいたことが、上の感傷と多少なりとも関係していたのかもしれないし、じつはまったく無縁な情緒のほとばしりだったのかもしれない。暗く霞んだ水平線をみていると、この一年のできごとが頭を駆けめぐる。反省すべきことが多すぎる。こんな心境は、帰国すれば、たちまち雲散霧消してしまうかもしれない。しかし、こういう想いに浸れただけでも、遠くの島にやってきた甲斐はある。少しだけでも自分を取り戻せたとしたら、ここに来たことは間違いではなかっただろう。

 フィリピンという国に、そう大きな期待をもっていたわけではない。大きな期待があれば、もっと早く訪れていただろう。日本の近隣にありながら、タイ、カンボジア、ベトナム、スリランカ、ネパールなどの後塵を拝したのは、直截にいうならば、この国に壮大なモニュメントが残っていないからである。「残っていない」という書き方は、この場合、適切ではない。 もともと、そういう 記念物がないのである。それは、この国に「王権」というものが存在しなかった証でもある。欧米列強の支配以前において、確固たる王権が存在しなかったため、ここにあるのは、部族的社会の伝統と欧米列強の遺産に限られる。この点において、フィリピンは、東南アジアの近隣諸国よりも、アフリカやオセアニアと似た座標にあると言える。
 当然のことながら、調査の射程は「植民地遺産」とセブアノ系住民の「伝統的集落」の2方向に拡散し、それらを日々追っている。その報告は帰国後になるだろう。まずは上海のレポートを片づけなければならない。





しんみりしないで、元気に行きましょうかね・・・

  1. 2011/03/24(木) 23:06:19|
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