カルカルの町並み シヴォ・シティはフィリピン第2の都市で、マニラのイントラムノスのような広範囲の歴史的市街地エリアはないけれども、海に近い独立広場の周辺にサントニーニョ教会、シヴォ大聖堂、マゼラン・クロス、サンペドロ要塞などの植民地遺産が集中して残っている。これらの遺産については、いろんなところで紹介されているだろうから、今夜はカルカル(Carcar)の町並みについて少しだけ話しておこう。
カルカルはシヴォ・シティの南約40キロにあり、アレクサンドリア聖カトリーヌ教会を中心とする小さな町だ。アレクサンドリア聖カトリーヌ教会は1870年代の建築だが、道路に沿って立ち並ぶコロニアル洋式の住宅は、その表札に記された年代を信じるならば、1600年前後の木造建築である。

1600年といえば、関ヶ原の戦だ。時代は桃山から江戸に向かいつつあり、鎖国を目の前に控えていた。世界史に目を転じると、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊が大敗したのが1588年。スペインからの独立をめざすオランダが東インド会社を設立したのが1602年のことである。東方アジア海域の覇権を、オランダがスペインから奪いとろうとしていた時期に日本は鎖国に入る。ご存じのように、欧米列強のなかではオランダだけが平戸島に租界地を許される。
カルカルの住宅群はスペイン支配末期の遺産であり、日本でいえば桃山の木造建築ということになるので、もしカルカルが日本にあったとすれば、「重要文化財」クラスの扱いがなされていただろう。ただし、木造住宅建築の年代が「1600年前後」と言われて、それを鵜呑みにする建築史研究者は多くはない。民家史からみれば、そこまで遡る住宅は例外的な存在である。雨が多く、蒸し暑いフィリピンで、400年も前の木造建築が今まで存続しえるのか、どうか・・・ただ、わたしには西洋建築の年代を判定する力がない。ここに示した一連の写真を彩る細部の意匠がどの時代の洋式に見合うのかを判断する基準をもっていないのである。
年代はさておき、カルカル木造住宅の意匠は見事なものだ。もしこの国が中国であったなら、上海の新天地や田子坊のような「保全」的再開発を敢行し、フィリピン有数の観光地に変身させていただろう。かりに日本であったとしても、重要伝統的建造物群に選定されるのは間違いなく、神戸北野のような洒落た街になっていたかもしれない。それだけの潜在力を有する植民地景観遺産なのだけれども、いまはただの住宅群であり、このまま劣化が進めば、歴史的な町並みが崩壊してしまうにちがいない。

カルカルのような町はとても少ない。カルカルに比較すれば、マクタンの道路沿いに軒を連ねる家々は「スラム」のようにすらみえる。なにより道路そのものが悲惨な状態にある。舗装が禿げて(舗装してないのか?)、路面がでこぼこになり、水がたまっているのだ。初日の夜、ミニバスに同乗した日本の若いカップルは、車の激しい揺れに閉口し、「酔うね、昨日はもっとひどかったけど」と口にした。そのとおりだ・・・おまけに、路肩にはゴミが散乱している。不衛生きわまりない。
「市長がわるい」とだれもが言う。袖の下は日常茶飯事、汚職ばかりで私腹を肥やし、ヤクザともつながっている。おかげで、道路の整備すらままならない。売春が横行し、いちばんの収入源になっている・・・
こういう負のイメージが2日めまで強くまとわりついていた。フィリピンの印象が「良い」とは言えない。それが徐々にほどけてゆく。

中央の二人が演奏しているマンドリンのような楽器が「ポルトガル・ギター」。12弦のブーズキと言ってもよいかもしれません。あきらかにリード楽器として使われています。その両脇で伴奏役に徹している6弦ギターを、ポルトガルでは「ビオラ」と呼ぶそうです。こうして、ヨーロッパの複弦楽器を探っていくと、12弦ギターでトレモロ混じりのリードをとる奏法の歴史的背景がみえてきますね。フィリピンのムードポップス系バンドにおける12弦ギターの奏法は、こういうところにあるのではないでしょうか。なお、ポルトガル・ギターの演奏については、
4月6日の映像「南蛮渡来」もあわせてご覧下さい。
- 2011/04/12(火) 00:00:29|
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