やって来ました、10年ぶりのチェンマイです。 仏教王国タイの古都。タイの中南部にアユタヤ王朝が栄えたころ、チェンマイにラーンナタイ王朝の都がおかれていた。鎌倉~室町時代のことである。ここ彼岸に至る過程は苦行の連続。午前五時半起床、関空発10時のフライトに乗るも、今日のTG(タイ航空)便はマニラ経由につき、バンコク着午後6時(タイ時間の4時)すぎ。乗り継ぎにも時間を要し、深夜11時半(同9時半)、ようやくチェンマイのホテルにチェックインした。機上時間だけみれば、ヨーロッパ便のほうがはるかに長いのだが、今日のTG便(とくに国際線!)の座席は狭く、つらかった。これもまた「只管打坐」と自らに言い聞かせながらも、臀部の痛みはしだいに増し、姿勢は崩れていくばかり。
今日は、3度飛行機に昇降した。おかげで、3食とも機内食にあずかり、おなじTG便ながら、味覚の変化を実感した。ひとことで言うと、日本に近いほうがまずく、タイ国内便の機内食は美味しい。米粉で作った幅広の麺に海老をからめた酸っぱい冷麺に舌鼓。

チェンマイというと、1995年の1月12~15日に、“The Future of Asia's Past” という国際シンポジウムが開催され、わたしは‘Nara’ というテーマでスピーチをした。英語でスピーチするのは初めてだったから、カンニング・ペーパーを早口で棒読みしただけだったのだが、客席の反応は敏感で、嬉しい悲鳴をあげながら、質疑応答はめちゃくちゃになった。会議が長かったから、チェンマイの文化遺産に接する時間がほとんどなかった反面、16日のオプショナル・ツアーでス・サチャナナライとスコータイという二つの世界遺産を訪れ、感銘をうけた。そのときの記憶が、妻木晩田遺跡松尾頭地区の遺構展示館(覆屋)の設計案にも活かされている。

大変だったのは、そのあと。1995年1月17日、わたしは帰国の途についた。登場前からざわめいていたのだが、途中で着陸したマニラ空港ではそれが大騒ぎと化していた。阪神大震災が発生した、その日だったからである。情報は錯綜した。日本に戻れないのではないか。
深夜、関空に着陸することができた。空港のスクリーンに、地震で燃えさかる神戸の風景が大映しになっていて、極楽から地獄への帰還であることが実感された。止まっていた南海電車と近畿電車も復旧し、奈良の自宅に戻ることができたのだが、神戸市垂水区の長兄と東灘区の次姉にはまったく連絡がとれない。それ以降、わたしがどのような救援活動をおこなったのか、時間に余裕のある方は、「倒れなかった姉の家」(『季刊民族学』73号、1995)をご一読ください。
- 2005/12/27(火) 23:19:52|
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