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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

心凍らせて

 8月1日(月)の午後2時すぎ、京都駅で電話のベルが鳴った。奈良文化財研究所の前所長、町田章さんの訃報である。しばし動揺し、あちこちに電話して情報を得るのに腐心した。まもなくスーパーはくとが鳥取にむかって動きだす。午後6時からの会議を終え、大学でしばらく雑用をこなしてから、深夜十時、オウム返しで奈良をめざした。深夜の中国縦貫道では、まさに走馬燈のように、町田さんの想い出が暗闇のなかをかけめぐっていった。

 わたしにとっての町田「所長」はわずか2年だけで、残りの12年間は平城調査「部長」だった。だから、「さよなら、部長」と言いたい。おそらく町田さん自身も平城部長時代を自分の人生の最盛期だと思っていただろう。少なくとも、わたしはそう信じている。
 まさに二人三脚の12年間だった。平城の発掘調査はもちろんのこと、日中都城の比較研究(中国社会科学院考古研究所との交流)、朱雀門・東院庭園・大極殿の復元事業、京大人環での教育など、すべてのことを町田さんとともに歩んだ。

  「おれについてくれば間違いはない」

が彼の口癖だった。酔っぱらってそういう彼に、しばしば口ごたえした。

  「ついてくれば間違いないっていうからついてったら、滅茶苦茶やんか・・・」

朝日奈良版20110802 最も辛かったのは平城宮の復元事業である。まともな研究者なら、ああいう愚かな事業に係わりたくない。研究所自体が推進しようとしたのではなく、外部からの圧力が大きく、抗っても不可能なその大きすぎる力に身を任せるしかなかったのである。研究所の大半を占める考古学者は、復元事業のことなど、なにも知らない。ただ、建築と庭園(遺跡整備)の関係者だけが犠牲になっていて、それを束ねていたのが町田さんだった。整備の中核にいる例外的な考古学者だったのだ。
 部長時代の町田さんは辛抱強かった。ときに頑固で、自分の主張を譲らないこともあったけれども、上司(つまり所長)からしばかれれば、方針を変えた。そういう部長の姿に、わたしたちは親しみを覚えていた。毎日のようにお酒につきあって、カラオケスナックにもよく通った。町田さんのカラオケは、聴くに耐えぬほど下手くそだったが、酔っぱらって演歌を唱う姿にこの世の極楽をみるようであった。
 あのころが懐かしい。あのころに戻りたい、とときに思う。


 所長時代のことについては、書かないでおこう。所長就任の2年後、わたしは研究所を離れ、環境大学に籍を移した。以来、一度しかお目にかかっていない。ただし、離職後10年を経た昨年(2010年)、『出雲大社の建築考古学』の推薦文を書いていただいた。その後、なんどか手紙のやりとりをした。それは、わたしにとって嬉しい出来事だった。

 3時間ばかり前、お通夜に行って焼香してきた。前夜、暗い高速道路でじめじめしていた心は、すでに乾いていた。笑顔の町田さん(の写真)に笑顔で語りかけた。たわいもないことを、である。

 これから車で鳥取に戻ります。今日も会議だ。
 南無阿弥陀仏。





  1. 2011/08/03(水) 00:04:33|
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