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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

ルアンプラバンの夢(Ⅳ)

01バークゥ洞窟01


バークゥ洞窟寺院

 中国の古典に「僚」という古民族名が散見される。いまはニンベンの「僚」を用いるが、史料的にはケモノヘンの「獠」が正しい。中華的世界の人々が蔑視した「南蛮」の一群をなす少数民族で、北京語ではリャオだが、古くはラオと呼んだのであろう。
 ラオなどのタイ系諸民族は、11世紀ころから東南アジア大陸部に南下し拡散していったと言われている。雲南省大理に栄えた南詔国の動きと関連づけて語られることもあるが、南詔国の担い手はチベットビルマ(蔵緬)語族だから、ラオやタイなどとの関係が明白ではないし、時代もやや古すぎる感がある。
 ラオスにおける統一国家の始まりは1353年に建国されたラーンサーン王朝で、その王都がルアンプラバンであった。当時のラオスは強国であり、東北タイから中国雲南省の南辺までも版図に納めていた。こういう歴史的経緯があるので、ガイドのクアントーンさんは「雲南の西双版納(シップソンパンナー)やタイのチェンマイも昔はラオスだったんです」となんどか誇らしげに語った。ちなみに、シップソンパンナーとは、ラオ語で「1万2千枚の田」を意味する。
 国家形成以前のラオスは、ムアンと呼ばれる部族社会が対立する内戦状態にあった。群雄割拠の諸国を統一したファーグム王は、上座部仏教をラーンサーン王国運営の基盤となる手段として導入した。ラオスにおける仏教は、14世紀にスリランカからカンボジアを経由して伝導されたわけだが、導入期はなお内戦が激しい状態にあり、王はメコン川沿いのバークゥ洞窟に僧・経典・仏像などをまとめて隠し保護した。ここにラオス最初の寺院が誕生したわけで、ラオスにおける寺院の起源は「洞窟寺院」だと言うことができる。

01バークゥ洞窟03


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01バークゥ洞窟02


 ルアンプラバンの街から船でメコン川を25km遡上すると、バークゥ洞窟に至る。そこには上下2層の鍾乳洞があり、あわせて4000体の仏像が祀られている。下層洞窟は浅く、石窟寺院に似た趣きがある。お布施をすると、線香をくるんだ小さな花束をもらえる。岸辺に近い祭壇に跪いて礼拝し、線香に火をつけ、花束ごと灰に突き刺す。
 数十メートル上にある上層の洞窟は奥深い鍾乳洞で、インド様式のゲートを警備員が厳重にガードしている。懐中電灯をもっていないと、奥に進んでいけない。黄泉の国へとむかう「岩屋」のような場所である。
 こういう自然の洞窟と石窟寺院は、起源的にどのような関係にあるのだろうか。洞窟はヒトの住まいとしても原初的な類型の一つであり、ゴードン・チャイルドはヨーロッパの後期旧石器時代に出現する大型の竪穴住居(マンモスなどの大型獣の骨を構造材とし、毛皮で全体を被覆していた)を「洞穴居住者の建築物」と呼んだ。氷河期を終えて、暖かくなりはじめた時代に、洞窟をでて開地で住まいを建設しはじめたヒトたちが人工の洞穴をつくった。それが竪穴住居だという理解である。
 仏教における初期の座禅瞑想の場として「岩陰」がある。洞窟はどうだったのだろうか。石窟寺院を「人工の洞窟」あるいは「人工の岩陰」として理解することが可能なのかどうか、まだ分からない。ラオスの場合、洞窟寺院が最初の仏寺ではあるものの、時代が新しい。戦乱からの退避という理由もある。ミャンマーにも洞窟寺院があるようなので、今夏中に訪問し、検討を重ねたい。
 冥界につながる通路としてのイメージを有する洞窟が、人工的な石窟寺院のモデルたり得るのかどうか、気になるところである。

01バークゥ洞窟06


01バークゥ洞窟05

  1. 2011/08/31(水) 00:24:00|
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