町家の調査(4)岡茂一郎商店 岡茂一郎商店は新町の「横丁」に位置する。新町をとおる街道筋は、本石橋家や旧石橋酒造が軒を連ねる南北軸がメインストリートになっているのに対し「横丁」はそれに直交して船川へ向かっていく道で、これも「松江杵築往還」の一部である
調査建物は木綿街道内に三つある醤油蔵のひとつ。創業は四代目茂一郎の頃で明治31年[1898]からだという(今の所有者は七代目)。三代目までは同じ場所で石屋を営んでいた。
敷地は横丁の両側を範囲とし、南側を店舗兼住居、北側を工場(コウバ)としている。南側はオモヤ、蔵2棟に茶室と付属屋(便所・風呂)が建ち、昭和22年に茶室の新築と併せて作庭した庭園がある。周辺には、岡氏所有の借家が数棟あり、同地区内で有力な商人であったことがうかがえる。
オモヤは切妻平入形式で、ツシ2階とまではいかないまでも周辺の平入町家に比べると2階の「せい」は低い。また、1階は出雲格子・縦格子・下見板貼、2階は縦格子と、腰に四半張りの海鼠壁がまわっており、建具をサッシに変えてはいるものの町並みの景観に寄与している。

間口(東西)七間半×奥行(南北)五間で、東側三間は背面に座敷を二間半増築している。また、西側二間についてはもともと別棟(借家?)であったが、大正末の大規模改修の際に小屋上げをして大屋根を繋げている。内部には大胆にも小屋組みが残っており、当時の2階高を知ることができる。

現在の大屋根は和小屋組で、棟通りに牛梁を架け、その上に軒から一間とばして小屋梁を架ける。小屋梁より上は束で母屋を支えて貫を通している。
固定資産台帳によればオモヤは明治28年[1895]の建築。重伝建地区倉吉の町家においては、明治中期頃に高二階の町家に建替えられたと推定しており、年代観としては妥当なように思われる。気になるのは、創業が明治31年で建築年代とは3年の時期差があるのだが、この期間を醸造を始める準備期間とみてよいのだろうか? 再訪時に確認したい。
O邸 O邸は宮ノ町の南側、船川沿いに位置している。現在は事務所兼住居としているが、以前は塩問屋を営んでいたという。なお、O邸については10年前に家揚げをして大規模改修をしており、その際に設計された木綿街道振興会のIさんに図面を拝借することができた。この場を借りて御礼申し上げます。
O邸の敷地は間口(東西)五間半で、奥行は街道から船側まで約二十間の短冊型の敷地割をしている。建物はオモヤ、ハナレ、道具蔵、米蔵、付属屋(便所・風呂)が配される。オモヤの中央間を土間としており、船川のカケダシまでほぼ直線に通路がとおる。
オモヤは、岡茂一郎商店と同じく切妻平入形式の高二階。出雲格子や戸袋、海鼠壁などの意匠も良く残り、上屋と下屋の軸がずれている「斜接」の特徴も確認できる。

平面については上述したように改修をしている。当初の平面が残っているのは西側二間半の一列で、前からミセ、六畳間、四畳間、八畳間と並び、縁を介して中庭がある。この一列とドマをはさんだ西側の二間半はもともと別棟だったものを昭和初期につなげたという。
小屋組みは、小屋梁上に束を立てて牛梁を支え、その上に一間とばして斜め梁を架け、さらに束を立てて母屋をおく和小組。建築年代は、聞き取りによれば、明治24年[1891]で、小屋組は牛梁にかかる梁に多少の違いは見られるものの、岡茂一郎商店のものと類似している。
O邸については、オモヤの建築もさることながら敷地全体の街道からカケダシまでの屋敷配置が良く残る。とくにカケダシは船川の水位によって使い分けられるように、三段で構成される珍しいつくり。カケダシについてはSh邸でもみられたが、多くはオモヤから川面に下りる階段を設けてカケダシと連絡する。それに対してO邸は本来の短冊型の敷地割と建物配置が残っており、当時の住民の生活模様を伝える貴重な例といえる。(続・タクヲ)

- 2011/09/11(日) 12:42:08|
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