以下はミャンマー訪問の4日め、14日深夜にマンダレーのホテルで書いたものである。ロビーでは無線LANが通じるということなので挑戦したのだが、「下書」の保存時に接続が切断した。ミャンマーにおけるネット接続は不安定きわまりなく、メールは送受信ともできない。
撮影したデジカメのデータ容量は20ギガに達した。ルアンプラバンの4倍である。夜は写真データの整理だけで相当な時間を浪費し、ブログの記事を書く余裕がない。毎朝6時にモーニングコールがある。そんなこんなで、ブログに久しぶりの穴をあけ続けることになった。よい休養だったかもしれない。
ウーペイン橋の風に吹かれて バガンにはやられてしまった。
「仏教聖地の3大遺産」という高い評価を得ていることだけは知っていたが、ここまでのレベルだとは思いもよらず、唖然・呆然・絶句の連続にわれながらあきれている。アンコール遺跡群やスリランカの仏教遺跡群に比肩しうる文化遺産に接しつつ、ミャンマーの政情が世界遺産への登録を妨げてきたことを残念に思うと同時に、諸外国の手がつけられていないモニュメントと景観に抱かれて幸せだった。
いま、ネットに接続できるかどうか微妙な状態にあり、また、本気でバガンのことを書くエネルギーも残っていない。バガンはとっておくことにして、昨日訪問したアマラプラの話から始めることにしよう。

ラオスで街のあちこちをうろついていた猫がミャンマーにはいない。街を徘徊しているのは、頼りない犬たちばかりなのであまり嬉しくなく、猫について問うと、みな「猫は家の中にいるのよ」と答える。バガン郊外の農家には、たしかに猫がいた。スコールの日、猫は暖かい炉端でぐたぁっと寝そべったままほとんど動かない。猫のぐうたらぶりに、ひどく満足な気分になったものである。猫は、こうでなくてはいけない。
昨日アマラプラに移動して、僧院の托鉢を見学した。
ミャンマーにおける最後の王都はマンダレーで、19世紀の中頃にアマラプラから遷都された。アマラプラはマンダレーから車で20分ばかりしか離れていない。要するに隣町である。アマラプラは「僧院の都市」として知られる。古くから僧院があって、若い僧侶はアマラプラで学ぶことがなにより栄誉とされる。マハーガンダー僧院がその代表格で、じつに全国から1700名以上の僧侶が集まって修行生活を送っている。僧侶は日に2度食事する。一度目は早朝未明、二度めは午前10:30ごろからで、後者の托鉢を見学した。托鉢に使う食材は信者が寄進する。いちどの寄進に500ドルが必要であり、寄進がない日は高位の僧侶がその額を負担する。この日は数名の主婦が寄進し、托鉢に参加していた。僧侶は鉢をもって列をなし、大量の米飯(ウルチ米)とバナナ2本をわたされる。そのまま食堂に入って、オカズとともに食事をとる。食事を許されるのは12時までで、以後、眠るまで何も食べてはいけない。
その過程を撮影し続けていたら、いくつもの僧房で猫があらわれた。猫も犬も食べ残しの食材を待っている。ミャンマーでは、食材を食べ尽くすのは恥ずかしいことだとされている。僧侶も必ず食べ残す。僧院は、犬猫にとって恩恵の固まりであり、托鉢の直後に動きが活発になる。いろんな猫をみた。全体に細身である点は、ラオスと変わらない。


托鉢見学のあと、ウーペイン橋に移動した。アマラプラのタウンタマン湖にかかる約1200メートルの木橋。インワからアマラプラに遷都するさい、ペインさんという技師が旧王宮の古材を再利用して建てた橋である。釣りの光景に風情があった。男たちは橋の上から糸を垂らしていたが、女たちは腰まで湖に浸かって2本の竿を構えている。短い竹竿の、両刀使いだ。小魚がよく釣れている。モロコのような雑魚。ザコツリストの胸が高鳴る。餌は葉っぱ(草の名前を忘れてしまった)。草に小魚が次々と食いついてくる。
橋の途中には何ヶ所か亭(アズマヤ)を設けていて、休憩所や物売り場になっているが、いちばん奥の亭で若者たちがギターを弾き、歌をうたっていた。で、ごらんのとおり、また悪い癖がでた。ギターを弾かせてもらった。12フレットの弦高1㎝以上。これが結構弾きやすいんで、驚いた。「
秘密の花園」をインストで披露したところ、若者たちから「日本の歌を聞かせてほしい」と頼まれた。しばらく考えて、高田渡の「仕事さがし」を1番だけやった。拍手を頂戴した。
ミャンマーは凄い国だ。これからいったい何回連載すれば、今回の成果を書き終えることができるのか、今は想像もつかない。恐ろしいほどの魅力をもった国である。

- 2011/09/19(月) 02:19:59|
- 文化史・民族学|
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