モン族の光と影 南方中国の山岳焼畑民、ミャオ(苗)族が東南アジアのモン族であることはよく知られている。ところが、やっかいなことに、ミャオとは関係ないもう一つのモンがいる。
昨夕、ミャンマーのヤンゴンまでやってきた。ミャンマーには135を超える民族がいるが、南部のモン州はモン族を中心とする行政区であって、ミャンマーのモンは東南アジア最古の先住民族とまで呼ばれる集団なのである。紀元前から活動歴があり、前300年ごろにスワンナプーム王国を建国し、前200年ごろから上座部仏教を信仰し始めたという。清朝時代に南下してきたミャオ=モン族とはまったく異なる集団なのである。
ラオスのモン族は「ミャオ」と呼ばれることを嫌う。「ルアンプラバンの夢」シリーズ(Ⅰ)で述べたように、「ミャオ」とは「猫(の鳴き声)」と同音であり、モン族はこれを蔑称として毛嫌いしている(中国において「苗」の呼称を苗族が嫌っているという話は寡聞にして知らない)。

ラオスのモンはベトナム戦争における米軍の傭兵集団だった。ベトコンと一体になって、ラオスの社会主義国家建設をめざしたパテト・ラオと戦うだけでなく、特殊部隊としてベトナムに乗りこみ米軍の最前線として大活躍し、大量の戦死者を出した。1975年のサイゴン陥落、ラオス人民共和国成立後、多くのモンは難民と化して、米・仏・豪・中などに亡命したが、ラオス国内に残る傭兵とその一族を対象に「モン狩り」が執拗に続けられた。合衆国がタリバンを永遠に憎み続けるように、モンに対するラオス政府の怨念が晴れることはないようで、旧傭兵としてのモンの掃討作戦はいまも止んでいない。


その一方で、モンの村は国外旅行社の観光地として魅力あるスポットになっている。もちろん傭兵とならなかったモン族の村落がそうなっている、ということだ。ルアンプラバン郊外のセンウドム村はその代表だ。村の道沿いには、モンの民芸品を並べる店だなが並ぶ。住居は懐かしい。かつて中国海南島で調査したミャオ族(海南島ミャオ族はじつはヤオだともいうが)と同系統の構造をしている。土間式入母屋造の素朴な建物である。ラオ族やタイ族の住まいが高床建築であるのとは大きく異なる。渓谷の低地で水田農耕を営むタイ系の民族は湿地に適応した高床に住み、山間部で移動しながら森林を焼くモン族はいつでも簡単に建てられるような素朴な土間式の掘立小屋に住むのである。
モンの人びとは国策により焼畑を放棄し山裾に下りてきたが、村の景観はよく古式を残している。茅葺きの屋根、アンペラの壁だけで構成される素朴な建物群である。しかし、物質文化は確実に現代化しており、軒下のバイクと暗い室内の奥に輝く大型のテレビが目をひいた(↑)。
モンはルアンプラバンのメインストリートで毎夜賑わうナイトマーケットの主役でもある(↓)。ラオ系民族のデザインとはまったく異なる渦巻き状の素朴なデザインはあか抜けており、見た瞬間、モンの民芸だと識別できる。わたしは、岩塩の入った小さなモンのポーチと箸入を買って帰った。お土産のなかでは、いちばん人気だったかもしれない。
- 2011/09/12(月) 01:51:37|
- 文化史・民族学|
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