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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

下之郷遺跡 -滋賀の大環濠集落

 滋賀県守山市の下之郷遺跡を視察した。下之郷遺跡は弥生中期の大環濠集落で、時期・規模とも大阪府池上曽根遺跡とほぼ同じ。3重(もしくはそれ以上)の環濠に囲まれた領域では竪穴住居が一棟もみつかっておらず、大型の掘立柱建物が方形区画に隔てられて林立しており、弥生集落論に波紋を投げかけている。
 池上曽根遺跡の整備にかかわったおかげで、近畿の弥生集落論がきわめて「危ない」状況にあることを、わたしは知っている。「都市」「王国」「巨大神殿」など、物質文化だけで容易に認定できるはずのない性格や用途を当たり前のように断定し、日本の都市化=国家形成が弥生時代にまで遡ると大勢の考古学者(とくに現場技師)が唱えて納得している。こういう状況を憂えていたのだが、山陰に引きこもってからは、正直言ってどうでもよくなった、というか、できるかぎり係わらないに限る、と諦観した。近畿の危なさに比べれば、山陰の弥生集落論は、妻木晩田を中心として実直な調査研究が積み重ねられており、保存運動時の加熱報道から軌道修正に成功していて、いまのところ、安心してみていられる。

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 下之郷遺跡の場合でも、いくつか問題を発見した。まず旧地表面の復元が頭から消えている。水田直下で遺構面が検出されるとはいえ、弥生時代の生活面がどれほど削平されているかは不明であり、竪穴住居は皆無だとしても、低湿地集落に卓越する登呂型の平地式伏屋住居が存在した可能性は十分考えられる。また、大型掘立柱建物が林立するとはいっても、本日みた限りでは、柱穴はえらく小さい。いまだ断割調査をしていないので、柱穴の深さや柱痕跡の径は不明だが、この小さな柱穴では高床建物に復元するのは難しいであろう。山陰でいうところの長棟建物と推定される遺構が少なくないような気がする。大型「神殿」などという大それた施設ではなく、居住性能をもつ建物のようにもみえた。
 とにもかくにも、池上曽根のようになってはいけない。もちろん吉野ヶ里のようであってもならない。はじめに「弥生都市」があり、「国家」があり、「巨大神殿」がある。そのイメージにあわせて、遺構を解釈する。これは科学としての考古学の姿では決してない。下之郷には、身の丈にあった復元、地に足のついた整備を進めていただきたいものである。

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  1. 2006/01/15(日) 20:33:26|
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