クムトラ千仏洞
クムトラ千仏洞は、クチャから西に25㎞の渭干河東岸の崖に開鑿されています。目的地に到達すると、崖の上に管理人とおぼしきウィグル族一家の住居を発見。しかも、その階段に猫がいるではありませんか。猫はさっさと屋内に逃げ去りましたが、タクヲさんと先生がおっかけていって写真を撮ってきました。貴重な砂漠の猫データです。
さて、クムトラ千仏洞は5世紀から11世紀まで造営された石窟寺院です。この石窟は、以下の3時期に分期されています。
第1期:中心柱窟と方形窟を主とした亀茲王国期(5~6世紀)
第2期:中原様式がみられる安西大都護府期(7~8世紀)
第3期:中原様式を用いる回鶻期(9世紀以降)
残存する石窟は南区に32窟、北区に80窟。全部で112窟です。なかでも比較的保存状態がよい石窟が38窟あるそうです。見学したのは以下の9窟である。
68窟(6世紀)中心柱窟
69窟(6世紀)僧房窟
70窟(6世紀)中心柱窟 釈迦座像が一部残っている。胴脚部の掘出し倚像
71窟(6世紀)中心柱窟 釈迦座像あり。胴体脚部掘出し座像
72窟(6世紀)中心柱窟 釈迦立像。頭部が木
63窟(6世紀)大像窟
58窟(8世紀)中心柱窟
45窟(9世紀)中心柱窟 回鶻の石窟・壁画の仏像が浮き彫り
16窟(11世紀) 中心柱窟 15~17三連窟 4体1組の千仏壁画

最初に「五連洞」とよばれる68~72窟から見学しました(↑)。「五連洞」とは、文字通り、5つの石窟の前室がテラス状の走廊(↓)で連なっているもので、すべて6世紀に造られた石窟です。68窟は中心柱窟で、天相図にはさまざまな楽器が描かれていますが、演奏者は描かれていません。また、釈迦の後ろには光背が見られます。69窟は壁の一部にトハラ語が書かれています。このほか竈もみられますが、僧房窟ではなく、勉強をするところだとか。天井部分には蓮華が描かれています。70窟には座像が一部分ながら残っています。71窟も釈迦座像が見られ、釈迦仏の上には長い穴があります。これは仏像の頭を支える横材を差し込んだ痕跡です。壁画には「流雲」が描かれています。流雲は吉祥の象徴です。先生は、さかんに法隆寺の雲斗雲肘木や出雲大社の八雲文様のことなどを口にされていました。72窟も中心柱窟で、立仏を元々置いていたそうで、光背が残っています。後室には涅槃台らしきものもありましたが、幅の狭いものでした。聞くと、ベッドの半分は外に飛び出していたとのこと。仏像については、70窟が倚像、71が座像、72が立像という違いがあります。


5連洞の次は63窟です。ここは「大像窟」と呼ばれていて、元は立仏を置いていたそうです。両側に光背が残っています。また、釈迦仏の袈裟部分は、今ははぎ取られてしまっていますが、金箔を貼っていたそうです。天井に残る壁画はとても綺麗で、菱形配列をしています。天井には人、動物など、釈迦の前世の物語が描かれています。下にいるのが太っている象で、上には猿、釈迦は兎を自分でもっています。これは尊厳な物語だそうですが、絵から物語が想像できるようになるにはまだまだ修行がいりそうです。

次が45窟。ここは菩薩の立仏があります。文字も刻まれており、果物をもっている子供の所に「南無阿弥陀仏」と漢字で書いてありました。また、薬師如来の周りに子供の供養者がいて、足の長い少数民族を象徴しています
最後に見学したのは16窟で、15~17の3連洞の一つです。時期は11世紀と新しい石窟になります。石窟の中には壁画がよく残り、小さい仏がたくさん描かれています。これらは一つ一つ描かれたのではなく、4体1組としてスタンプして複写したものだそうです。真ん中には大きな石窟があり、外の走廊は中心柱窟になっています。ここは3連洞の前室をつないでいる古いもので、前室を中心にしてコの字型に主室が並ぶ三合院タイプであり、天井はドーム状になっていて、中に菩薩立仏が置かれたとのことでした。(ヒノッキー)


↑ガイドの姚さん

↑屋台で食べた豆腐とキノコの串焼きは辛いけど、美味でした!

↑ウィグル族の都市住居
- 2011/12/01(木) 01:28:16|
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