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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

火の国 ぶらり(Ⅴ)

02阿蘇02全景01


阿蘇の噴煙

 「火の国」紀行の締めくくりは阿蘇がふさわしいであろう。
 寒い一日ではあったが、空は雲一つないほどの晴天で、雪は溶けないまま山肌に貼りついている。
 山上をめざす前に阿蘇神社を訪れた。肥後国一宮である。駐車場のすぐ前に楼門が立っている(↓)。

   「明治初めころの作か・・・」

と瞬時に思った。「日本の三大楼門」というだけのことはあって、高さ18メートルの棟高に驚きはしたが、プロポーションが縦長でいかにも「近代和風」の匂いがしたのである。そもそも、こういう形式の2階建の門を「楼門」とは言わない。楼造の門が楼門であって、阿蘇神社の場合、「二重門」が用語上正しい表現である。多くの大社が本殿を囲む回廊の中心に楼門を配するが、これとて古式の社殿配置ではない。もともと神社本殿を囲む装置は「垣」であり、その正門は「鳥居」であった。それが「回廊」と「楼門」に変化していく背景を仏寺からの影響とみるのは正しくない、とわたしは思っている。天皇の出御する大極殿、あるいは内裏正殿(紫宸殿)を囲む回廊と楼門が神社境内に取り込まれるようになるのだというのがわたしの見方で、平城宮でさんざん復元に係わる仕事をさせていただいたが、宮殿復元のモデルを寺院建築に求めすぎているように思えてならない。現人神である天皇の住まいが、神霊の居処たる神社の空間に投影しつつ変化させてきたのであり、これを反転させるならば、平城宮や平安宮の復元には神社の楼門や拝殿が重要な根拠になるはずだ。ただし、阿蘇神社の場合、宮殿式の楼門ではなく、仏寺式の二重門だということである。

01阿蘇神社01


 案内板をみると、阿蘇神社楼門は明治建築ではなく、嘉永3年(1850)の上棟であった。見立てが間違っているとお叱りを頂戴しても構わないけれども、「幕末~明治初期」という年代相でひと括りにできる時代ではある。拝殿は明治建築で、その奥に3棟の神殿(阿蘇神社では「本殿」とは言わない)が並列する。拝殿の外から神殿を視野におさめることができない。『阿蘇神社』(週間神社紀行特装版)によると、神殿は天保年間の建立という。阿蘇神社の場合、建造物よりも、むしろ稲作に係わる祭事のほうが有名で、1982年、重要無形民俗文化財(芸能) に指定されている。一方、3棟の神殿のほか楼門・御幸門・還御門の建造物6棟が重要文化財に指定されたのは2007年、つい最近のことである。
 驚いたのは、拝殿から神殿に拝礼しても、その方向に阿蘇が存在しないことであった。阿蘇山は遙拝の対象、すなわち、ご神体山ではないことをこの方位性が示している。ただ、山と神社がまったく無関係なわけでもない。楼門の前を左右に通る横参道は全国的にも珍しい形式で、参道の南が阿蘇火口、北が国造神社を指向しているとされる。

01阿蘇神社02


02阿蘇04植生01


 阿蘇神社から阿蘇の火口へ向かう車窓に映る山並みは日本らしくない。山麓を針葉樹らしき森林(植林?)の緑が覆うが、中腹から上はベージュ色をしている。それは土なのか芝生のような草なのか・・・阿蘇山中の道路を走らせていくと、ベージュが枯草の色であることが分かった。地皮が思いっきり薄いのであろう。そこは牧草地になっている。柵のむこうに牛馬がたむろし、枯れ草をもぐもぐ頬張っている。そして、その向こうに薄く白粉を塗った阿蘇の頂がみえる。

02阿蘇03放牧01


 小学校低学年のころ、父母に連れられて阿蘇を訪れた。兄も一緒だった。ロープウェイで火口に上り、縁まで歩いていったものの、火口の底を覗いて恐怖を覚えた。天候は良くなかったけれども、噴煙は少なく、火口まであがれたのだが、山の美しさなど微塵も感じず、ただ恐怖感だけが残った。
 三十数年ぶりに訪れた阿蘇は真逆の対応をしてくれた。山陰が大雪に苦しむ年末に熊本は青天に恵まれている。しかも、気温は低いから雪は溶けない。雪と青空の対照をしみじみ味わいながら、山頂へと車を走らせたのである。ところが、中岳の火口から噴煙が吹き出している。ガスが直径1キロの範囲に充満し、危険な状態なので、山頂間近のロープウェイ基地から上にあがることはできないとの告知がはりだされていた。

02阿蘇01山頂02


 基地の脇に、阿蘇山上神社と阿蘇山西巌殿寺奥之院が軒を連ねる(↓)。いずれも建物は新しいが、由緒は古い。古代から阿蘇中岳火口は「神霊池」と呼ばれる「神宮」であり、火口に向かって拝殿が建てられていたという。6月上旬に噴火口へ御幣を投げ入れる「火口鎮祭」が山上神社でおこなわれる。阿蘇山西巖殿寺は、神亀3年(726)、聖武天皇がインド毘舎衛国から招聘した最栄読師によって開かれたと伝える。最栄読師は阿蘇火口の西の洞窟(岩屋)に自ら刻んだ十一面観音を安置し、寺を開いた。この洞窟寺院を「西の巖殿(いわやどの)」と人びとは呼んだ。その後、寺には「三十六坊五十二庵」もの堂宇が築かれ、修験道の拠点として隆盛を極める。西巖殿寺は戦国時代に衰退したが、加藤清正により再興された。主要伽藍は山麓に移設されたものの、山頂には「奥之院」が建立されて古代以来の祈祷・修行の場として継承されていったという。

01阿蘇神社04山上神社


 阿蘇神社の配置と方位性にみるように、阿蘇山は遙拝すべきご神体としての性格は弱い。ただ、活火山の火口のみが神聖視されている。阿蘇はむしろ修行の山だということであろう。

02阿蘇05世界遺産01  ロープウェイ基地で一時間ばかり待機するあいだ、土産物をみてまわっていて、「めざそう! 阿蘇 世界文化遺産」というフラッグにであった(←)。富士山がそうであるように、阿蘇もまた「世界自然遺産」ではなく、「世界文化遺産」をめざしているのである。富士山も阿蘇も自然遺産で恥じることはなにもないと思うのだけれども、環境省が動く気配はない。となれば、「山岳信仰」を主題にして文化遺産に申請するしかない。「紀伊山地の霊場」がすでに登録され、「富士山」もまた暫定リストからユネスコへの申請がなされた今となっては、「山岳信仰」をテーマとする限り、阿蘇は苦しく、大山・隠岐・三徳山と同じ悩みを抱えることになるだろう。
 割り切れない気持ちを抱えはしたが、三十数年ぶりの阿蘇に、素直に感動した。【完】

02阿蘇01山頂01




01阿蘇神社03招き猫
↑阿蘇神社門前のお食事処「江戸や 一文字」の招き猫。肥後の猫は7歳になると阿蘇の根子岳へ修行にでる。そこで、人に化けた猫は迷った旅人をおびき寄せ、たらふく馳走して眠らせた後、旅人を食べてしまうという昔話がいまに伝わる。
  1. 2012/01/03(火) 00:01:48|
  2. 景観|
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