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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

『伊勢神宮』と私(Ⅰ)

 メセニーのバリトンギターとピカソギターの制作者であるリンダ・マンザーの本を探していた。すでに研究室の本棚に本を縦置く余白はなく、たしかマンザーの本は縦本たちの上に横置きしたはずだと、棚を探していたら、井上章一さんの『伊勢神宮』(2009)という本がでてきて、驚いた。この本を買った記憶がない。贈呈された記憶もない。なぜ、私の部屋の本棚にあるのか?
 ただ、井上さんが『伊勢神宮』を著したことは知っていた。つい最近、『建築史学』の最新号(57号、2011年9月)の特集「稲垣史学の地平」で取り上げられていたからだ。そこでの評価は芳しいものではなかったが、井上さんは大学の研究室の先輩だから、「へぇ、井上さんが伊勢神宮について書いてるんだぁ」と驚いたものの、アマゾンのボタンを押すまでには至らなかったのである。
 しかし、調べてみると、まる2年前にボタンを押していた。アマゾンのアカウント・サービスから「注文履歴」に入り、「伊勢」を検索してみると、ある時期、伊勢神宮本をまとめ買いしており、そのうちの一冊が

  注文日: 2010/1/8
  伊勢神宮 魅惑の日本建築
  井上 章一

となっている。おそらく『出雲大社の建築考古学』の編集でやっきになっていたころで、他の著書を優先して読み始め、本書のことを忘れてしまったのだろう。
 ページをめくって、さらに驚いた。本文518頁中、438頁からあとの80頁ばかりで、わたしが主役級の扱いになっているではないか。しかも、その主題は「池上・曽根」である。人生においていくつか思いだしたくない出来事があるけれども、池上・曽根はその最右翼にあるといって過言でなく、わたしだけでなく、わたしに近い人たちも話題にしようとしない。井上さんは研究室の先輩だが、ここ30年近く交流もないのに、どうしてまたわたしに係わる評論を書いたのだろうか。

 悪意は感じない。資料を丹念に読まれていて、どちらかというと、わたしに与する意見を少なからず述べておられる。ありがたいことだとは思ったけれども、こういう評論を書くのは、わたしの没後にして欲しかった。井上さんとわたしで、どちらが長生きするか分からないから、「没後」は望めないにしても、生きている人間の言動を相手にするからには、せめて本人にインタビューすべきではないでしょうかね・・・文字では表現できない「真実」はいっぱいある。その「真実」も一つではない。ひとつの事象に係わる人間は、すべて「自分」というフィルターをとおしてモノゴトを認識するわけだから、人それぞれに「真実」は異なるはずだ。だから、一つの事象について、複数の関係者にヒアリングする必要がある。金子達仁が『28年目のハーフタイム』などでよく使う手だ。井上さんは、なぜわたしを取材しなかったのだろうか。【続】

  1. 2012/01/20(金) 00:22:06|
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