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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

『伊勢神宮』と私(Ⅱ)

 昨日の記事の最後に【続】と書いたことをひどく悔やんでいる。わたしがいまごろ池上・曽根を回顧しても、なんの意味もない。偏見が是正されることもないだろう。
 さて、どうしたものか・・・

 2009年5月31日、わたしは大阪府立弥生文化博物館で「弥生建築の実証的復元 -青谷上寺地遺跡の衝撃-」と題する講演をした。池上・曽根のお膝元であり、館長は金関先生だから、講演に招聘されたこと自体が信じられないので、金関先生に「何かの間違いではないでしょうか」と電話でお訊ねした。先生は「館員の合田が張り切っていますので、どうかよろしく!」とお答えになった。
 わたしは10年ぶりに弥生博を訪れ、130名の聴衆の前で青谷上寺地建築部材の話をした。講演のあとには、合田さん、金関先生、私の3人で座談会もした。客席には杉本先生、石野先生、黒田さん、深澤さんらの壮々たる研究者も陣取っていた。また、池上・曽根復元整備の事務局長を務めていた広瀬さんもいらっしゃって、控え室で談笑した。
 さて、奥付をみると、井上章一さんの『伊勢神宮』の初版発行年月日は2009年5月14日となっている。弥生博講演のわずか2週間前である。金関先生は、電話口で井上さんのインタビューを受けた、とおっしゃった。わたしもまた、だれが教えてくれたのか忘れたけれども、そういう微かな情報を知っていて、「インタビュー記録がすでにどこで活字になっているようですよ」とお伝えすると、先生はご存じなく、驚いておられた。時系列からみて、その「どこか」が『伊勢神宮』であったのは間違いないだろう。

 あの講演を終えて、池上・曽根の問題は過去のことになったと思っていた。講演に招聘してくださった金関先生と合田さんには、いまでも深く感謝している。ただ、講演の前後に、大型建物をみる気にはなれなかった。あの復元建物は、自分が主導したようで、「そうではない」という気持ちもあり、正直なところ、愛着を感じていないのである。

 以下、蛇足であり、信じてもらえない点も多いだろうが・・・こういう評論がでたからには書き残しておくしかないか。 

 1)わたしの復元「原案」は南方風ではない。大型建物の遺構平面と土器絵画を組み合わせれば、平屋(か屋根倉)の建物になるのであって、土器絵画に壁の表現はなく、また遺構の柱間寸法もばらばらであるところからみて、四面開放がふさわしいと思っていた。少なくとも、床上に横板落込の壁をもつような二階建式の高床建築に復元すべきではないと考えた。

 2)だから、井上さんのいうように、池上曽根の大型建物跡を素材にして、インドネシアやニューギニアの民族建築を表現しようと最初から目論んでいたわけでは決してない。だれも信じてくれないが、わたしは当初から、自分の復元案が「南方風」だと批判されることに違和感を覚えていた。

 3)破風板をつけようと提案したのは、たしかにわたしである。しかし、その破風板があれほど幅広の大きな極彩色のものになるなど、予想もしていなかった。あの破風板のデザインは、わたしの手から離れ、乾さんら現地の考古学者の方々が創作したものである。ところが、後になって出土した小型神殿風建物を描く土器絵画をみればあきらかなように、切妻建物の妻側では桁の木口が表現されており、破風は存在しなかった可能性が高い。いまある復元建物から破風をとりのぞけば、あの大型建物は、ただ大きいだけの白木の建物に変身するだろう。屋根勾配がきつくなったのは、屋根倉式にせよとの依頼で、屋根裏空間をひろくとらなければならなかったからである。ただし、わたしの原案は「屋根倉」ではなく、「平屋の四面開放」であった。

 4)宮本案との折衷として、伊勢神宮御饌殿のような板甲倉を想定すれば良かったのでは、と井上さんは提言している。しかし、残念ながら、弥生時代に板甲倉の構造は成立していない。登呂・山木に代表される削出柱式の板倉が存在するだけである。それは小型の高床倉庫に用いられる構法で、いまも八丈島のオクラに受け継がれているが、池上曽根の大型建物にふさわしい構法とは言えない。大型建物を平屋に想定すれば、構造的な矛盾はすべて解消する。

 5)繰り返しになるけれども、わたしの復元案には前提として「南方」があったわけではない。前提に固執していたのは、現地のみなさんの方だと思っていた。「弥生都市の巨大神殿」がかれらの前提である。池上・曽根が「弥生都市」であるという証拠もなければ、あの大型建物が「神殿」であるという根拠もない。現地のみなさんは、最初から、それを「弥生都市の巨大神殿」として売り出したいと望んでおり、そういう意図のもとに発掘調査資料を拡大解釈していると感じていた。当時のわたしにとってみれば、「弥生都市」も「巨大神殿」も受け入れがたいものであり、いまも、その気持ちは変わらない。池上・曽根に係わる考古学者のみなさんは皆すばらしい方であり、ずいぶん良くしていただいた。しかし、歴史観が違うものはちがうのであって、それが極端なところまで来てしまったので、中途ながら、池上・曽根の復元整備から撤退するしかなかったのである。だから、整備報告書にも一切関与していない。【完】

  1. 2012/01/21(土) 00:13:14|
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