
あの日の
仁風閣よりも、もっと寒い場所がある。仁風閣にちかい鳥取城擬宝珠橋の発掘現場である。内濠に矢板を打って水を抜き、橋桁の下を掘っている。遺構の残りはよい。太めの杭があちこちに顔を出している。
明治初期の写真が残っていて、当時架かっていた呉橋のおよそ7割方が写っている。橋脚の並びは、写真でも不揃いにみえる。一ヶ所あきらかに柱間の短いスパンがあって、他は同スパンのようにもみえるけれども、遺構を見る限り、柱間寸法は当間ではない。
橋の復元に係わったことが一度だけある。平城宮東院庭園で池に架かる平橋と呉橋(アーチ橋)を復元した。平橋は橋脚の柱間寸法が均一だったが、呉橋では中央間と端間で橋脚の柱間寸法が異なった。柱間を変えることで、アーチ状の構造を実現しようとしているのだと考えたのである。鳥取城擬宝珠橋の場合、おそらく橋脚の柱間全長は8間で、柱の中心から4間分が対称の柱間寸法に復元できるだろう。その柱間寸法は4間ですべて異なる。その状況が明治初期の写真に映し出されているのだと思われる。江戸時代の終わり頃に建てられた木橋で、整備計画では、この木橋を復元することになっているらしい。

わたしは整備の委員ではない。調査の委員である。だから、整備に口はださないことにしているのだが、「木橋の復元など必要ない」と思っている。いまの遺構を保護しながら、別の木橋を遺構の真上に復元することの意義はいったい何なんだろうか。どうせ水に浸かって、橋脚は腐っていくではないか。
史跡の整備は、あいかわらず復元が主役である。史跡の上に高校のキャンパスがあることを許すまじというマニアが、復元建物には寛容であり、むしろ歓迎している、という現象をわたしは滑稽に思っている。
それにしても厳しい現場だ。風邪をひいて倒れる調査員や作業員が続出?しているとも聞く。そんなに無理してまで掘らないといけないものなのだろうか。
- 2012/01/30(月) 00:02:26|
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