瑞巌寺の解体修理と発掘調査 巌と書いて「いわ」「いわお」と読む。巨岩のことである。日本国歌にいうところの「さざれ石、巌となりて」とは「小さな石が巨岩となる」までの長い時間を表現する修辞である。一方、巌は「いわや」でもある。阿蘇火口の脇にある
阿蘇山西巌殿寺奥之院の「西巌殿」は「にし(の)いわやどの」と読む。独眼龍正宗の造営で知られる松島の瑞巌寺(ずいがんじ)は「巌」の字を含み、円仁の開山伝承まで残っている。おまけに、解体修理にともなう発掘調査が本堂(方丈)で昨年からおこなわれていると聞き、胸が疼き、ときめいた。
円仁の創建については、例に漏れず、後世の附会として信頼されていない。ただ、平安時代に天台宗の延福寺が近隣に存在し、鎌倉時代に臨済宗に改宗して円福寺と寺号を改めた。それが瑞巌寺の母胎である。
発掘調査は1週間前に終わっていたが、28日、担当者のMさんにご案内いただいた。現本堂の柱位置を避けつつ、おびただしい数のトレンチが設定されており、発掘調査面積は1200㎡に及ぶ。細かいことを書き始めるときりがないので、結論だけ述べておくと、瑞巌寺本堂の真下で、円福寺(14世紀ころ)の僧堂と法堂(はっとう)が発見された。僧堂は東西5間×南北4間以上で基壇上面を四半敷とする。法堂は方5間堂で、四半敷の痕跡はなく、基壇上面を三和土(たたき)とする。僧堂が四半敷で、法堂にそれがない、という点が気になるが、これらの遺構を「僧堂」「法堂」に比定しうるのは、「遊行上人縁起絵(一遍上人絵伝)」との対比によるものである。なお、説明資料では、瓦が出土していないことから、屋根を「萱葺か板葺」と推定しているが、絵図をみる限り、「こけら葺」の可能性が高いであろう。
↑出土した四半敷 ↓現本堂柱礎石の下には凝灰岩を砕いてニガリのようにした壺掘りの地形が確認された
瑞巌寺の境内は正面を海に臨み、他の3面は凝灰岩の巌(いわ)に囲まれており、その一面におびただしい数のヤグラが穿たれている。ヤグラとは中世禅宗寺院の山崖部分に造られた横穴墓であり、巌(いわや)の一種ではある。ただし、その源流は古代に遡らない。ヤグラに類する横穴墓は宋元時代の禅宗寺院にあり、江南禅林の文化複合として鎌倉時代に日本にもたらされたものである。天台宗の「奥の院」などでみる岩窟仏堂とは系統が異なるということである。瑞巌寺の場合、凝灰岩の崖面を幾何学状に穿っており、摩尼寺などでみる岩窟・岩陰との差異を非常に大きく感じた。これらの巌(いわや)=ヤグラの群は鎌倉時代のものである。このたび発掘調査によってみつかった円福寺の遺構と同時代のものになる。巌の研究と地下調査を併行して進めることで、円福寺の全体像がみえてくるだろう。
未曾有の大震災にあって、松島は被害の少ないほうであったという。リアス式海岸の対岸に点在する島々が津波の緩衝壁となったのである。観光客がようやく帰ってきた、という声を地元で聞いた。晴天ではあったけれども、路面の氷は消えず、境内では霜柱が立っていた。門前の土産物店では、シジミ汁をただでふるまっており、寒さに震える観光客はみな手をのばす。お椀は店内の返却口に返してください、と指示されるまま店内に入り、清酒と牛舌を買った。商売が上手い。
↑↓境内を囲む凝灰岩の絶壁とヤグラ群
- 2012/01/31(火) 00:00:11|
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