権現造と大崎八幡宮 本殿と拝殿を相の間(石の間)で繋ぎ、全体の平面を「工」字形にする社殿様式を権現造(ごんげんづくり)という。権現とは東照大権現、すなわち徳川家康の神号の略称であり、権現造の代表が日光東照宮(1617造営、1636造替)であるのは言うまでもなかろう。家康の没後、徳川家は日光に権現造の霊廟を築いたが、じつは豊臣秀吉の豊国廟(1599)がそれに先んじていた。意地悪な見方をするならば、徳川は秀吉の廟を壊して、同形式の廟を家康のために造営したと言ってよいかもしれない。ただ、権現造形式の霊廟の起源は平安時代に遡り、そのはしりは菅原道真を祀る北野天満宮だという。現在の拝殿・本殿等は慶長12年(1607)、豊臣秀頼が造営したものである。
一方、仙台の大崎八幡宮は坂上田村麻呂が宇佐神宮を勧請したとの社伝があり、伊達政宗が慶長9年(1604年)に造替を始め、同12年(1607)に竣工した。八幡造から権現造への展開は、構造的にみて十分おこりうる進化であろう。それはさておき、わたしは慶長9年(1604年)を重視し、講義で「大崎八幡神社が権現造最古の遺構」と説明しているが、竣工年からみると、北野天満宮と同年である。いずれも「桃山様式」の代表作であり、朝鮮の影響がみとめられる。とくに、彩色に半島の特色が投影されていると言われる。東照宮よりも豊国廟に年代が近い点、気になるところだ。豊国廟もこういう色合いの建築だったのか、それとも秀吉の性格を反映して、東照宮に似たど派手なデザインだったのか・・・よく知らない。

明治以降、大崎八幡神社と呼ばれていたのだが、近年(1997)、大崎八幡宮という旧名に復している。名称変更と言えば、鳥取市の樗谿神社(おうちだにじんじゃ)も「鳥取東照宮」に昨年改名された。江戸時代の社名は「因幡東照宮」であり、旧名に復したとは言えない。樗谿の樗(おうち)という植物には気品があり、文字は難しくて書きにくいが、「おうちだにじんじゃ」という呼び名を愛した市民も少なくなかろう。昨年の文化財保護審議会でも、近代史の専門家から文化財名称の変更に対する異義申し立てがあった。ちなみに、因幡東照宮(1650)は権現造になっていない。石の間がなく、本殿と拝殿・弊殿が棟を分けている。山陰の場合、権現造の代表例をあげるとすれば、出雲市の日御碕神社(の下社)であろう。

仙台入りした1月27日、まず大崎八幡宮を参拝した。この神社の社紋も
金持神社と同じ三巴で、なんとなく親近感を覚えた。「末吉」からの挽回を期して、またしてもお神籤を引いた。「小吉」だった。年末の吉(天岩戸神社)から正月の末吉(摩尼寺)に格落ちし、春節前に小吉(大崎八幡)にランクが上がった。ヤフー知恵袋のベスト・アンサーに従うならば、小吉は吉よりも上のはずだが、神籤の文面を読むと、厳しいことばかり書いてある。とくに学問は「雑念が多すぎる」とのこと・・・肝に銘じましょう。
- 2012/02/01(水) 00:00:01|
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