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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

摩尼寺「奥ノ院」遺跡の環境考古学的研究(Ⅸ)

 年度末です。発掘調査報告書の編集に追われています。自然科学的分析を依頼していた業者さんからレポートが送られてきており、そろそろ研究のまとめに入らなければならないので、ここに連載することにしました。

土器からみた下層整地の年代観

 2010年度におこなったⅠ区・Ⅱ区加工段の発掘調査で地山を確認できなかったので、2011年度はハンドオーガー・ボーリング調査を試み、Ⅰ区では地表面下約2.5m、Ⅱ区では地表面下約3.1mまで掘削した。その深さで器材は空回りし、岩盤にあたる触感を得た。凝灰岩片を含む下層の整地土はⅠ区では地表面下約2.1m、Ⅱ区では地表面下約2.5mまで続き、地山はその深さよりも下にある砂質土の層もしくは岩盤と判断した。Ⅱ区の下層整地土は赤味がかった粘質土であり、本報告書では調査時のラベル名を引用し、しばしば「赤褐土」と略称している。この粘質土は凝灰岩の破片や粒を含む。Ⅰ区の場合、下層整地土に赤みはなく灰褐色をしているが、凝灰岩の破片や粒を含む粘質土である点は共通している。
 Ⅱ区の山側にあたる西壁の付近には、平たく掘削された凝灰岩の岩盤層が幅1~2mの範囲でひろがり、その岩盤は突然消えて赤い粘質土に変わる。当初は急峻な山崖のように反り上がった巨巌があり、それを平らに削ったものと推定され、その平たい岩盤面で10個のピット(p201~p210)と1つの溝状遺構SD01を検出した。このうちSD01は南北方向に伸びず、約2.5mの範囲でしか存在しないので、人工の「溝」とは考え難い。おそらく山状に盛り上がった二つの巨巌の接点にあたる谷底の残存であろう。SD01からは平安時代の土師器杯(№51)・土師器皿(№52)、岩盤表面パック層と岩盤に穿たれたピットP3からも同時代の瓶(№49・50)が出土しており、凝灰岩盤の削平は平安時代以降になされたものと推定される。2010年11月27日の公開検討会での意見を尊重するならば、これらの土器は10世紀以降のものと推定される。
 Ⅱ区下層の遺物で年代が示されたのはこの4点にすぎない。平安時代の土器が出土したこれらのピットや溝状遺構はゼリー状の灰色土でパックされており、そのパックをはがした遺構の表面もしくは埋土から土器が出土している。下層の廃絶年代ではなく、下層の形成年代を示す遺物であると考えられよう。凝灰岩片を含む下層の、Ⅱ-B区「赤褐土」で土器が1点出土しているが(№72)、器種・年代とも不明である。ただし、土層の序列からみるとゼリー状のパック層は岩盤と接する「赤褐土」上まで伸びており、岩盤の削平と同期に「赤褐土」の整地がなされたと判断してよいだろう。
 岩盤上ピットのうちp201-p202-p203は7尺等間で一直線に並び、それとほぼ直交する位置で掘立柱の堀形と抜取穴(p301)がみつかっており、一つの建物SB02としてまとまる可能性がある。また、下層井戸跡SE01の埋土上に形成された土壙SK102でみつかった凝灰岩の沓石は掘立柱の根元を固め、礎石建のようにみせる役割を果たしたものであろう。p201の形状が方形を呈し、沓石もまた方形の孔を備えることから、下層岩盤上に建った建物は細い角柱によって構成されたものであり、その規模から考えて「草庵」あるいは「草堂」をイメージさせる。

岩石鑑定からみた整地と礎石

 すでに述べたように、下層整地土の「赤褐土」には大量の凝灰岩片を含む。この凝灰岩片は、当然のことながら、岩盤の削平に伴って削りだされた岩屑と想定されるが、肉視だけでは科学的根拠を伴わないので、パリノ・サーヴェイ株式会社に鑑定を依頼した。岩種鑑定を依頼したのは5点であり、以下に鑑定の結果を要約する。

  №01(Ⅱ-C区の下層整地土に含まれる凝灰岩片): 変質凝灰岩
  №04(Ⅱ-C区の削平凝灰岩盤の一部): 変質凝灰岩
  №06(Ⅱ-C区西寄りの上層礎石の一部): かんらん石単斜輝石玄武岩
  №13(Ⅱ-D区北壁地下の推定「安山岩」岩盤の一部): デイサイト質凝灰岩
  №17(Ⅲ区岩陰近くで採取した凝灰岩片): デイサイト質凝灰岩


 パリノ・サーヴェイ社は、№01と№04が酷似し同一の地質に由来する「変質凝灰岩」とみる一方で、肉視では安山岩と推定していた№13と岩陰仏堂近くで採取した№17を「デイサイト質凝灰岩」と判定している。ここにいう「変質凝灰岩」は基質の粘土鉱物化が著しく、「もとはデイサイト質凝灰岩であった可能性も考えられ、地質的には岩陰の凝灰岩と同じものであったとも考えられる」が、「岩陰の凝灰岩には径0.2mm前後の二次石英が散含されている」のに対して、風化しにくい石英が下層の凝灰岩には残ってことなどから、「下層の整地層の凝灰岩は岩陰の凝灰岩より採取されたものではないと判断」されるという。その一方で、「周辺の鳥取層群の凝灰岩類に由来することは明らかであることから、下層の整地層の凝灰岩は、周辺の凝灰岩層において、元々、粘土鉱物化していた箇所より採取されたものと推測される」と結論づけている。
 つまり、下層「赤褐土」に含まれる変質凝灰岩は平安時代に削平した凝灰岩盤の削り屑ではあるけれども、岩陰仏堂を掘削した岩屑ではない、ということである。ただし、今回「赤褐土」に含まれる凝灰岩は1点しか鑑定していない。しかも、そのサンプルはⅡ-C区で検出した下層岩盤近くに位置するものなので、当然と言えば当然の結果と言えるだろう。調査時に「安山岩」とみていたⅡ-D区北壁近くの自然岩盤(№17)はⅢ区岩陰に近い位置にあり、両者が同一のデイサイト質凝灰岩である点も頷ける。
 今回は経費の関係で、鑑定を依頼した点数が少なく、下層整地土内1点の凝灰岩片が岩陰の凝灰岩とは異なるという結果がでた。つまり、岩陰や岩窟の掘削年代と下層整地年代の一致が認められなかったわけだが、下層整地土で採取している凝灰岩片のサンプルは他にもあるので、来年度以降、さらに複数の凝灰岩片の鑑定を依頼し、岩窟・岩陰周辺の凝灰岩との一致/不一致をみきわめたい。岩窟・岩陰仏堂については、現時点で掘削年代を知る手がかりはないが、岩陰に鎮座する木彫仏が平安末に遡る可能性が示唆されている点が唯一年代に係わる情報と言えよう。
 なお、かんらん石単斜輝石玄武岩と鑑定された上層の礎石(No.06)については、摩尼川の下流数百メートルの地点で採取できるものと推測されている。【続】

  1. 2012/02/14(火) 00:00:13|
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