三徳山三仏寺の年輪年代測定と前身建物 2002年に三徳山三仏寺で部材の年輪年代測定がおこなわれ、投入堂西扉(辺材型)の最外層年代が1078年、納経堂身舎丸柱(辺材型)の最外層年代が1082年を示したことで注目を集めた。用材とされたヒノキの伐採年代は11世紀後半に遡り、投入堂および納経堂が1100年前後に建立されたことがあきらかになったのである。さらに投入堂の本尊「蔵王権現」6-1右足(樹皮型)の最外層年代が1025年、「蔵王権現」6-6本体(辺材型)の最外層年代が1011年、愛染堂古材№1叉首台(辺材型)の最外層年代が1021年を示すことなどから、おもに美術史の研究者によって前身建物の存在が指摘された。これをうけて、投入堂(蔵王堂・愛染堂)の立地する岩盤の痕跡調査がおこなわれ、わたしも参加した。調査の結果、岩盤に200以上のピットを確認したが、柱を納める基礎となるようなピットの数は極端に少なく、かりに前身建物が存在するにしても、現位置での建替としか考えられない。すなわち、現状のデータでは、三徳山三仏寺「奥の院」における投入堂の建立は11世紀前後であり、その前身建物が存在するにしても11世紀前半までしか遡り得ないのであり、役行者に係わる縁起の年代とは相当な開きがある。
六郷満山との比較 さて、大分県は磨崖仏でよく知られているが、磨崖仏を覆う岩屋(いわや)と掛屋(かけや)も数多く残っている。ここにいう岩屋とは、絶壁に掘り込んだ横穴であり、掛屋は岩屋の前方に設ける懸造の建物である。岩屋を掘って仏像を祀る場合、その正面に掛屋をつくって風雨を避け、そのなかで人びとは礼拝する。山陰ではすでに遺跡化した「奥の院」が少なくないから、「岩屋の前には掛屋があったのだろう」という推定の域をでないのだけれども、大分では「岩屋の前には掛屋があった」と言い切ってよいのである。
現在、六郷満山周辺で最も古い掛屋は宇佐市院内町の龍岩寺「奥の院」礼堂であり、棟木下端に「奉修造岩屋堂一宇□□□ 弘安九年丙戌二月二十二日 大旦那沙弥」の墨書銘を残し、鎌倉時代13世紀後半(1286年)の建造と知られる。岩窟内に3体の木彫仏を配し、その前方に懸造礼堂を設け、木像を保護している。岩窟の上部から外側に向かってのびる片流れ屋根の礼堂で、中国石窟寺院の「窟檐」を彷彿とさせる。これが最も素朴なタイプの礼堂だが、六郷満山には流造や入母屋造の懸造礼堂を半割にして岩屋に密着させるものがある。
六郷満山にはもう一つ避けて通れない建造物がある。豊後高田市田染の蕗(ふき)に境内を構える富貴寺は、他の六郷満山諸寺院と同じく、仁聞開山伝承をもち、宇佐神宮の庇護を長きにわたって受け続けた。その境内に国宝の大堂(おおどう)が建っている。宇佐八幡大宮司の到津(いとうづ)家文書によれば、大堂の建立 は12世紀後半であり、様式的には平安時代後期の建築とされる。 正面3間×側面4間の小さな和様の阿弥陀堂で、九州最古の仏教建築でもある。屋根は宝形造の行基葺。阿弥陀如来を納める四天柱のみ丸柱とし、側柱はすべて面取角柱とする。不思議に思う方も多いであろう。なぜ、このように小さな阿弥陀堂が「大堂」なのか。それ以前はどうだったのか、考古学・歴史学的な証拠はなにもないが、六郷満山及びその周辺諸山の寺院に多く残る茅葺きの「草堂」(草庵風の仏堂)や掛屋に注目すべきではないだろうか。富貴寺大堂の竣工以前、この地の本堂や講堂などの主要仏堂 はおそらく掘立柱の「草庵」であり、富貴寺に初めて本格的な礎石建瓦葺の本堂が建設された結果、従来の草堂に比して大きく立派だから「大堂」という尊称が与えられた可能性がある。
秀衡杉の由緒と下層の年代観 富貴寺大堂の建設時期は磨崖仏の制作時期(平安後期~鎌倉前期)とほぼ重なり合い、それはまた、三仏寺投入堂の建築年代(1100年前後)とも重なりあう。これをそのまま受け入れるならば、天台宗による地方山岳寺院の再整備は11~12世紀まで下る可能性が高いであろう。摩尼寺「奥の院」の場合、下層から出土した土器とC14年代測定値により「10世紀以降」という年代観が得られており、三徳山や六郷満山より古くから下層整地がなされたともみられるが、現段階では「10世紀 以降11~12世紀まで下る」という年代幅でとらえておいたほうがよい。
すでに示唆したように、「10世紀以降11~12世紀まで下る」という下層伽藍の年代観は、『因州喜見山摩尼寺縁起』に記された藤原秀衡(1122-1187)の伝説をも巻き込んでしまう。清衡が大病平癒の報恩として摩尼寺を建立 し、杉苗数本を寄進したとする逸話は後世の附会だとしても、清衡の生存年代に摩尼寺が天台宗の伽藍として整備された可能性は否定できないのである。しかも、それ以前から仏教に係わる活動がおこなわれていたために、円仁と強引に結びつけて縁起書に記した可能性もあるだろう。
摩尼寺「奥の院」遺跡で平安時代初期以前に遡りうる土器が14点出土しており、摩尼山におけるヒトの活動が円仁以前に遡ることがあきらかになった。三徳山における役行者、大山における金蓮などの開山僧がいずれも伝承上の人物でしかないとしても、その時代から山陰地方の霊山で仏教活動が展開した可能性を示唆する考古学的証拠になるだろう。大分においても仁聞、行基、役行者などの開山縁起は少なくなく、六郷満山諸寺そのものが宇佐神宮の境内神宮寺的性格をもつものであることからも、8世紀前後の「雑密」的活動を否定できない。そして、「雑密」期の修行に伴う山上堂宇は(おそらく掘立柱の)「草庵」もしくは「草堂」であり、その傾向は(10世紀以降11~12世紀まで下る)天台宗伽藍整備まで存続したであろう。今に残る三仏寺投入堂、富貴寺大堂、磨崖仏などは整備以後の革新的モニュメントであり、人工の岩窟・岩陰型仏堂もおそらくはその革新期に造営されたものと思われる。しかし、その一方で、自然の岩窟や岩陰を祭場もしくは行場とする伝統はより早い段階から成立していた可能性があり、自然か人為かの識別が鮮明でないため、巌(いわお・いわや)をめぐる信仰上の展開を掴みきれないのである。
福建丹霞と甘露寺 余談ながら、磨崖仏の卓越する大分の懸造は巌崖に密着する岩屋前室あるいは礼堂としての性格を有する「懸造=礼堂型」であり、磨崖仏との複合性をも考えあわせると、華北の石窟寺院と親近性を感じさせる。対して山陰の場合、不動院岩屋堂(若桜町)や焼火山雲上寺(隠岐の焼火神社)のように、大きな岩窟を掘って、そのなかに懸造の仏堂をまるごと納める「窟内本堂型」が主流を占める。山陰の懸造は「仏堂」としての独立性が強く、中国には類例が存在しないとも思われたが、「大山・隠岐・三徳山」シンポジウムで来日し不動院岩屋堂を視察された楊鴻先生(中国建築史学会理事長)は、福建省の甘露寺に似ているとコメントされた。福建省泰寧の甘露寺は、2010年に世界自然遺産に登録された「中国丹霞」(地球の進化のプロセスを示す赤いカルスト状地形)の絶壁岩陰に建つ宋代開山の寺院。中国では「南方の懸空寺」と呼ばれているが、絶壁に建つ懸空寺とは異なり、巨大な岩陰のなかに複数の懸造堂宇を設けており、山陰の岩窟・岩陰型仏堂が巨大化したようにもみえる。日本の岩窟型仏堂にも、華北系と華南系の両方があり、懸造建築の独立性という点からみて、華南系と山陰に共通性を認めうるのだが、摩尼寺「奥の院」の岩陰・岩窟二重仏堂の場合、むしろ巌崖の岩肌に懸造を半割にして密着させる六郷満山の入母屋造掛屋と似ている。その点では華北系とみることもできるので、山陰が華南系であるとは一概に言いきれない。この問題については、現状の認識を別稿[岡垣・浅川2012]で述べているので参照されたい。
参考文献 岡垣・浅川(2012)「岩窟・岩陰型仏堂と木造建築の関係についての調査ノート」『鳥取環境大学紀要』第9号【近刊】
- 2012/02/17(金) 00:00:36|
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