植生からみた「奥の院」の境内 Ⅱ-A区とⅡ-B区のL字トレンチで、それぞれ上下層1ヶ所ずつ、計4ヶ所の土壌の花粉分析と植物珪酸体(プラント・オパール)分析をパリノ・サーヴェイ社に依頼した。土壌試料は、以下の4点である。なお、A005などの番号はパリノ・サーヴェイ社の分析番号、それに続く( )内のNo.002などの番号は発掘調査現場における土壌採取の通し番号を示す。
Ⅱ-A区L字トレンチ: A005(No.002/上層) A009(No.006/下層)
Ⅱ-B区L字トレンチ: B002(No.018/上層) B007(No.023/下層)
A区・B区とも、下層の土壌サンプル(No.006、No.023)は花粉化石の産状が壊滅的な状態であり、下層の植生復元は不可能である。上層についても、花粉化石の保存状態は良好といえないが、No.018では計460の花粉・胞子を検出した。分解に強い花粉が選択的に多く残されている可能性があり、当時の周辺植生を正確に反映していない可能性もあるが、パリノ・サーヴェイ社は以下のように分析している。
木本類をみると、マツ属が優占する。このうち亜属まで同定できたものは、
全てマツ属複維管束亜属であった。マツ属複維管束亜属(いわゆるニヨウマツ類)
は生育の適応範囲が広く、尾根筋や湿地周辺、海岸砂丘上など他の広葉樹の
生育に不適な立地にも生育が可能である。また、極端な陽樹であり、やせた
裸地などでもよく発芽し生育することから、伐採された土地などに最初に進入
する二次林の代表的な種類でもある。このことから、当時の遺跡周辺でも、
二次林や植林としてマツ属が存在していたと推測される。また、ツガ属、
スギ属等の針葉樹、クマシデ属-アサダ属、コナラ属コナラ亜属等の落葉
広葉樹、シイ属等の常緑広葉樹などが周辺の森林を構成しており、林内や林縁
にはウコギ科、ミズキ属、タニウツギ属等も生育していたことが窺える。
一方草本類では、少ないながらもイネ科、タデ属、カラマツソウ属、
サツマイモ属-ルコウソウ属など、開けた明るい場所に生育する「人里植物」
に属する分類群が認められ、カヤツリグサ科、アブラナ科、ヨモギ属、
キク亜科、タンポポ亜科等も同様である。よって、これらは遺跡内やその周囲
の草地植生に由来する可能性がある。
植物珪酸体の産状の観察からは、(略)周辺において少なくともクマザサ属
やメダケ属を含むタケ亜科の生育がうかがえる。
この分析で特筆すべきはマツ属の多さである。現在の摩尼寺「奥の院」周辺は照葉樹と落葉広葉樹の混交した原生林に近い植生を示し、2次林であるところのマツはほとんどみられない。しかし、『因幡民談記』所載の喜見山摩尼寺図にマツと思われる樹木が多数描かれており、「奥の院」をはじめ建物の周辺に集中している。絵図の表現と花粉分析の結果を照合するならば、上層期(16~18世紀頃)では、周辺の原生林と境内を識別しうるマツが多く植えられていたことが分かる。神社の叢林(鎮守の森)が照葉樹を中心とする原生林的な植生を示すのに対して、仏教寺院は照葉樹ではなく、マツに代表される針葉樹をしばしば伽藍の境界に並木のように配する。上層期の「奥の院」においても、おそらく周辺の自然地形と「境内」を区画する境界として松(の並木?)が利用されていたのであろう。しかも、境内地には「人里植物」が生育していた。山頂に近く自然の豊かな「奥の院」にあっても、周辺の自然地と境内地を識別しうる人為的な植生がみられたことに注目したい。
- 2012/02/19(日) 01:57:45|
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