オーガー・ボーリング調査 1.調査の目的 摩尼寺「奥の院」遺跡の発掘調査(2010)では、Ⅰ区・Ⅱ区の加工段(平坦面)で地山(自然堆積層)を確認できなかった。2011年のボーリング調査は、前年未確認であった地山を確認し、摩尼寺「奥の院」遺跡の層位関係を見極めようとするものである。調査前に、いくつかの障壁に突きあたった。土壌の専門家を現場に案内し協議した結果、Ⅱ区の地山は斜面の傾斜からみて地表面下2.5m以上の深さと推定されるが、機械ボーリングの機材を山上に運び込むのは不可能であり(経費も尋常ではなく)、現実的にはハンドオーガー・ボーリング以外の手だてのないことが判明した。しかしながら、摩尼寺「奥の院」遺跡の下層整地土には多量の凝灰岩片を含み、地表面からの掘削はきわめて困難であろうという見込みが示されたのである。
ボーリング調査は、本来地表面からなすべきものだが、地盤の固さや凝灰岩片の多さを考慮し、Ⅰ区・Ⅱ区の深掘トレンチの底面から掘削作業をおこなうこととした。機材はハンドオーガーとハサミスコップを併用した。ボーリングの方法は以下のとおりである。掘削前にレベル測量で掘削面(上面)の標高を確認。1回の掘削で深さ15~20㎝の土壌が得られる。その土壌を観察し、「色彩」「土質」「凝灰岩片の有無」などを記した土壌名と標高をラベルに記して、土壌とラベルをビニール袋に収める。この作業を掘削可能な深さまで反復し、土壌の変化を観察する。Ⅱ区における下層整地土の特徴として、①赤みがかった「赤褐土」であり、②粘性が比較的強く、③凝灰岩片・凝灰岩粉を含む、という3点を指摘できる。この3つの特色が薄くなればなるほど、地山層である可能性が高くなる。
2.Ⅱ区のボーリング調査 Ⅱ区はB区北西隅の深掘りトレンチの埋め戻し土を取り上げた。この部分では、表土の下5㎝前後の位置で赤褐シルトの層を検出しており、これが上層遺構面である。地表面下15㎝の位置で凝灰岩片混じりの層があらわれ、地表面下50㎝はシルト層、その後70㎝まで凝灰岩片の混じる粘質土の層となっていた。以上は、下層遺構面から上層整地土の層である。ここまで2010年のトレンチ調査で判明しており、トレンチ底からボーリングをおこなった。ボーリングでは、地表面下約3m(トレンチ底から約230㎝)まで掘削に成功した。表1に示したように、掘削の回数は30回(№1~30)である。
No.1からNo.3までは多くの凝灰岩片を含む茶灰色系の粘質土であった。2010年度の断面調査では、このレベルではすでに土壌は「赤褐土」系であったが、ボーリング調査では赤みが薄れていた。あるいは、発掘調査時に3ヶ月以上露天に晒したことで変色をきたしたのかもしれない。
No.4から土層は「赤褐土」の色彩を取り戻し、標高が下がるにつれ、赤味は強くなっていく。いずれも粘質は強く、凝灰岩片を含むことが多い。No.12では粘質土に少量の砂質が混じり、No.13になると粘質層から砂質層へと変わる。No.16・No.17では土壌の赤味がとても強くなる。No.19になると、凝灰岩片は極微量の凝灰岩粉になり、No.20からは凝灰岩の要素は肉視では確認できない。No.23から下では土壌から赤味も消え、土壌は茶灰系の色に変わり、凝灰岩は含まれない。No.28から下の土壌はとても軟らかい砂質で、No.29でハンドオーガーが硬い何か(岩盤?)にあたり、No.30では空回りした。No.30土壌はサラサラした砂質であるため、ハンドオーガーで取上げることができなかった。
以上を総括すると、凝灰岩粉が肉視で確認できるのは№19(地表面下2.32m)であり、土に微かな赤みを確認できるのは№27(地表面下2.88m)までである。この間の土質はすべて砂質系である。したがって、浅くみれば№20(地表面下2.38m)、深くみれば№28(地表面下2.88m)より下の層を地山とみることができる。ただし、岩盤の削平に伴う「削り屑」と推定される凝灰岩片・凝灰岩粉が遺物に近い要素であり、その要素の消える№20(地表面下2.38m)あたりを地山層の上面とみてよいのではないだろうか。
なお、ハンドオーガーが空回りし、土壌の採取が難しくなったNo.29(地表面下3.04m)あたりでほぼ岩盤に達していると推定される。
3.Ⅰ区のボーリング調査 Ⅰ区はサブトレAの埋土・土嚢を取り上げ、底面からボーリングを差し込んで掘削した。Ⅱ区と違って赤みがかった「赤褐土」系の土は堆積していない。発掘調査時の断面調査によると、地表面下20㎝のあたりから凝灰岩片の混じった粘質土を検出する。地表面下20~60㎝の層はシルトと砂質の層がほとんどで、地表面下60㎝を越えると、シルト層がほぼなくなり、砂質層となる。トレンチ底の地表面下1.1mからボーリングをおこなった。
まずNo.4(地表面下1.41m)で大粒の礫などに当り、ハンドオーガーが動かなくなったので、ハサミスコップで10㎝ほど掘り、礫を取り除きNo.6から再びハンドオーガーで掘削した。No.9からNo.12まで粘質土へと変化するが、No13(地表面下2.10m)で砂質へと戻り、ハンドオーガーは地表面下2mの深さで空回りした。Ⅰ区の土壌はすべての層で凝灰岩片を多く含んでいたが、ほとんどがハンドオーガーで掘削できる微粒であった。No.13での空回りは凝灰岩盤に当ったものであろうと推測される。
Ⅰ区では、凝灰岩粉のない土層は存在しないので、凝灰岩盤の直上から下層の整地がなされたものと思われる。Ⅰ区については、発掘面積が非常に小さく、下層/上層の境については不明である。
4.まとめ 以上みてきたように、Ⅱ区は地表面下2.38m(もしくは2.88m)あたりで地山に達し、地表面下3mのあたりで岩盤に達するのに対して、Ⅰ区では凝灰岩盤の直上から下層の整地がなされており、岩盤そのものが地山と推定される。(ナオキ)
- 2012/02/20(月) 05:14:41|
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