冬の「奥の院」 2011年度最後の調査は、歳を跨ぎ、正月
17日におこなった。前年の年末年始、山陰海岸の漁船群を沈没させるほどの大雪が鳥取県を襲った。摩尼山の門前では約120㎝の積雪があり、元旦から停電になったと聞いている。それにひきかえ、2012年の正月は穏やかで、門前に雪はなく、不安な気持ちを抱えながらも、「奥の院」岩陰仏堂の石仏調査を敢行することにしたのである。ところが、山道に入るや根雪が増してゆき、その深さはまたたくまに30~40㎝に達して調査隊の行く手を阻んだ。なんとか「奥の院」に辿り着き、Ⅱ区の加工段を見渡すと一面銀世界ではあったが、その奥にみえる岩陰には雪がない。リーゼントヘアーのように張り出した巌(いわお)の陰に隠れた絶好の避難場所になっている。しかも、岩陰の内部が明るく写しだされている。いつもは薄暗く、仏像や岩肌が霞んでみえにくいのに、その日はそれらが浮かび上がるようにして眼前にあった。
一つの原因は落葉である。岩陰を隠していた大樹・小木の枝から枯葉が落ち尽くして陽光が岩陰の奥に届いている。繁茂していた草も枯れ果てた。いまだ苔生してはいるけれども、巌を隠す植生は範囲を大きく狭めており、銀幕からの反射光で裸体になった岩肌が照らし出されている。そこで、わたしたちは新しい発見をした。岩陰(Ⅲ区)から岩窟(Ⅳ区)に直線的に上っていく石段を確認できたのである。それは巌を削りだして石段状に加工した刻み階段であった。すでに摩耗が激しく踏み石の姿は概形をとどめる程度だが、階段の痕跡であるのは間違いない。やはり、岩陰と岩窟は一体化した二階建の仏堂だったのであり、この遺構もまた『因幡民談記』にみえる二重仏堂の一部をなすものである。
こうしてみると、巨巌・岩陰・岩窟を覆う雑木の伐採や除草は「奥の院」の歴史を知るための有力な調査手段であることが分かる。伐採すべき樹木のなかには「大樹」も含まれるが、ここにいう「大樹」にしても樹齢はせいぜい20~30年であって、「天然記念物」扱いできるようなものではない。雑木の親玉と言うべき樹木であり、その樹根が巌や地下遺構を破壊する源になっている。
加工段と岩陰・岩窟を遮蔽するこれらの大樹・灌木を伐採し、丁寧に除草すれば、崇高なモニュメントたる巌が姿をあらわし、加工段と岩窟・岩陰の一体化した遺跡景観が恢復されるであろう。発掘調査に携わるスタッフ全員が、いつもそれを願い事のように考えていた。今回、冬の「奥の院」を訪問し、長い石段を発見したことで、その想いはいっそう強くなった。この伐採清掃作業は、いわば垂直的な発掘調査というべきものであり、今後できるだけ早いタイミングで実践しなければならないと考えている。その作業は「調査」であると同時に「整備」でもある。伐採清掃作業によってあらわになった巌・岩陰・岩窟と加工段が、木造建築部分を失った「奥の院」上層遺構の全体像を示すものであり、一般公開されるべき対象にほかならないからである。
木彫仏の保存処理 今回の石仏調査では、岩陰下段の仏像群の種類だけでなく、上段北側に鎮座する虚空蔵菩薩が文化6年(1809)の寄進であることが背面刻字よりあきらかになった。また、石の彫りかたや風蝕からみて、岩陰の千手観音像や不動明王像も虚空蔵菩薩の制作年代に近いと思われる。一方、2010年度後期のプロジェクト研究2「歩け、あるけ、アルケオロジー」では、摩尼山で130体の石仏を調査しており、文化文政年間頃の寄進を少なからず確認できている。現境内から立岩の閻魔堂に至るルートが江戸時代後期以降の主たる参拝路であり、「奥の院」が廃絶していたその時期にあっても、「奥の院」に複数の石仏が寄進されている点は興味深い。廃墟となった「奥の院」はなお信仰の場として活きており、その伝統は現代に継承されている。岩陰の地蔵菩薩は近代の作(寄進)であり、賽銭箱に近いⅢ区の埋土からは戦後の貨幣が出土しており、なにより今もまた参拝の客がときおりみられる。
それ以上に興味をそそるのは木彫仏の年代観である。専門家は「年代も朽損のため明確にできないが」と前置きしつつ、「一木造りであることや頭部と躯部等全体のバランス、わずかにみられる衣文の特徴等」を根拠にして「平安末期前後に位置付けられる可能性」を指摘している。「平安末期前後」という年代観はじつに悩ましい。三仏寺投入堂・富貴寺大堂・磨崖仏の年代がまさに「平安末期前後」であり、出土土器とC14年代が示す「奥の院」下層の年代幅は何度も述べてきたように「10世紀以降11~12世紀まで下る」ものであって、清衡杉の由緒までもが重なり合うというおまけがつく。ただし、注意しておかなければならないのは、岩石鑑定によって、岩陰(デイサイト凝灰岩)と下層整地包含の変質凝灰岩が異なるという結果がでたことである。現状で分かっているのは、巌崖の削平と下層整地が同時ということであって、岩陰の掘削年代は不明であり、木彫仏と岩陰の相関性も未確定だと言わざるを得ない。
木彫仏は動産であるから、当初はどこに安置されていたのかは分からない。しかし、それにしても、木彫仏が平安末期前後まで遡る可能性が専門家により示唆された点は重要であろう。今後は、木彫仏の樹種鑑定・年輪年代測定・C14年代測定にできるだけ早急に取り組み、相応の古さが確認されたあかつきには、木彫仏の腐朽を防ぐ保存処理をおこなう必要がある。場合によっては、木彫仏のレプリカを制作して岩陰に安置し、保存処理した本物の木彫仏は博物館等施設に展示もしくは収蔵する必要が生じるだろう。
- 2012/02/22(水) 00:00:22|
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