2010年の春に学生のインタビューをうけ、同年
7月14日に「ある学生インタビューから」と題して掲載した。その1年半後、こんどは秘書を連れた関東の某有名私学教員が来鳥し、中国研究活動に関わるインタビューをうけた。いずれ書物になるそうで、LABLOGに掲載するかどうか悩んでいたのだが、ようやく決心がついたので、今日から連載を始める。
なぜ中国だったのか――先生と中国との出会いについて教えてください。
ぼくは鳥取西高校を卒業して、ほとんど建築に興味をもたないまま、京都大学の建築学科に入学しました。修士課程進学直後、指導教官だった西川先生に「ミクロネシアの伝統的な集会所を復元するプロジェクトがあるから記録を取ってきなさい」と命ぜられ、海外でのフィールドワークを体験したのが大きな転換点となりました。2ヶ月間のフィールドワークが抜群におもしろくて、夢中になってしまい、修士論文もミクロネシアの民族建築をテーマに書いたんです。博士課程に進学して、フィールドを南太平洋から東南アジアにひろげていこうと思っていたんですが、そういう研究をしてもなかなか職がみつからない。進路について悩んでいた頃、西川先生から「研究者になりたいなら中国しかないぞ」と言われましてね、中国留学を決意しました。最近西川先生とお話しする機会があって、当時の話になったんですが、「ぼくは、インドは好きなんやけど中国は苦手やったんや」とおっしゃる。苦手な分野を割り振られ、ぼくが中国担当になったようです。それまで中国と関わるなんて夢にも思ってませんでしたけど。
――学部時代はどんな生活だったんですか。
すでに大学紛争の峠は超えてましたが、京大ではまだ学生運動が盛んでした。ぼくは典型的なノンポリでね。建築学科の授業もつまんないし、サッカーとギターに熱中する4年間でしたね。
――都市史の西川先生の下で学ばれたとのことですが、当時の京大建築学科周辺の状況とミクロネシア研究の関係を教えてください。
西川先生が「建築史」講座の助教授から「地域生活空間計画」講座の教授に昇進されたころでした。ご専門は「都市史・保存修景計画・東洋建築史」。京大のイラン・アフガニスタン調査隊にも参加されていて、そのプロジェクトを前進させようとされていました。いまは先生の領域と重なりあうテーマを研究していますが、当時のぼくは一門のなかでも異端でしたね。ミクロネシアでの経験が強烈だったんで、「民族学」に偏った研究指向をもってしまい、先生も困られていたと思います。しかし、ぼくが西川研究室を選んだ理由は、フィールドワークを重視していることと、海外で調査できることでした。一方、川上先生は文献学的に日本建築史を研究されていました。ぼくは今でも文献が苦手でして、ともかく海外のフィールドにでたかった。
ミクロネシアの仕事は、国立民族学博物館(民博)経由で西川研究室に依頼がきたんだと思います。当時、海外の遺跡保全・整備方面では西川先生が最前線にいらっしゃって、たぶん、そういった流れのなかで、ぼくがミクロネシアに行くことになったんでしょう。いま民博館長の須藤さんたちがミクロネシアのサタワル島で長期のフィールドワークをされていて、よくご指導を仰ぎに民博に通いました。当時ぼくは20代で須藤さんたちは30代でしたが、すごく影響を受けて「文化人類学っておもしろいな」と思ったものです。
80年代は日本全体がバブル経済の絶頂期で、現代建築が浮わついてみえたし、建築家の発言の多くにも失望しました。「建築とはなにか、住まいとはなにか」という問題を原点に立ち返って学ぶしかない、などという大それたことを考え始め、そのためには民族学(文化人類学)の方法がいちばん良いと思いこんでいたんです。当時は建築と民族学の境界上で研究している人はほとんどいなかった。とくに大学院生にはいない。原広司さんの研究室が世界の集落をランドクルーザーを乗り回して調査したり、東京芸術大学の先生方がいわゆる「デザインサーベイ」に熱心に取り組まれた時期とも重なりますが、民族学的なフィールドワークとは、あくまで文化を内側から読み解くことだと信じていたので、「かれらとは違う」という自負はありましたね。今もそう思ってるわけじゃありませんけど。まぁ、似たりよったりですよね。そもそも、最近は「視察旅行」しかしてないもん。
『東洋建築系統史論』と『住まいの民族建築学』――先生の博士論文をまとめた『住まいの民族建築学』は、戦前は満洲にいらして戦後京大の建築史の先生になられた村田次郎さんが1931年に発表した『東洋建築系統史論』を思わせます。大きな視点から、アジアの住居をとらえようとしている。
ぼくの本は歴史・考古学的なデータと民族学的なデータをつなぐという興味からできているわけですが、村田先生の方がより「歴史学的」で、ぼくの方が「民族学的」だと思います。実証を重んじる歴史・考古系の研究者は、村田先生やぼくのやり方を批判していると思いますが、実証を旗印にするばかりに、いつまで立っても何にも言えない、ってことだってあるわけでして、いまあるデータで自分の「思いつき」を述べておいて、どこが悪いのかって開きなおっています。西川先生は歴史学者でありながら、今和次郎の考現学や宮本常一の民俗学を軽視されてはおりませんで、よく文献をご紹介いただきました。なにより、民博の存在が大きかったですね。初代館長の梅棹忠夫先生は突出した方で、文献史学とは違う視点で文明史を論じられた。著作をずいぶん読みました。あの真似はできない。「できる」と思っている人はたいてい転んでます。ぼくは「できない」と比較的はやく気づいた方ですよ。
――京大には京都学派の歴史もあり、中国研究に厚みがあります。
京大人文科学研究所(人文研)の東方部は世界の中国研究三大拠点の一つですね。ただし、それは文献学的中国研究でして、「漢文読めなきゃ人じゃない」というところだから、ぼくのように頭の悪い人間はついていけない。田中淡さんも大変だったと思います。わたしはね、漢文読むよりも、田舎で民家や町並みの調査をしているほうが楽しい。ただ、中国学者の本は結構読んだかな。福永光司、吉川幸次郎、貝塚茂樹・・・みんな人文研東方部ですよね。でも、いちばん好きだったのは、文学部の宮崎市定だな。この方も突出していて、真似のできない本を書いている。梅棹忠夫とか宮崎市定を目標にしてはいけない。我われ凡人には、凡人にふさわしい仕事の仕方があります。
最近アマゾンで取り寄せたところ、LPでした。いや、困ったな・・・
- 2012/02/26(日) 00:00:14|
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