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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

中国と私(Ⅱ)

 北京語言学院から同済大学へ

――中国にはそのあと、政府留学生の試験をパスして1982年に渡航されました。
 81年に留学試験を受けたんですが、軽く落ちましてね。2年めの82年にギリギリ合格した。思い起こせば、いまひとつヤル気がなかったんでしょうね。ほとんど興味のない中国に留学する理由を見いだせずに苦悶していた。82年から84年まで、博士課程を休学して中国に行きました。文化大革命終結後四人組の追放があって、毛沢東の後継者であったはずの華国峰がまたたくまに小平に取って代わられ、小平傘下の趙紫陽が首相、胡耀邦が総書記だったころです。最初は北京語言学院で中国語を学びました。普通、中国語研修は半年なんですが、出来がよくなかったから、まる一年間、北京で中国語を一からやりました。

――そのあと上海の同済大学に移られますが、当時の中国の留学生活はどういった状況だったのでしょうか。
 研究対象が南方中国だったこともあり、上海の同済大学で「長江下流域明清代住宅調査」を主テーマに研究しながら、半年かけて中国全土を旅しました。指導教官の陳従周先生に大変よくしていただきましたし、大学当局も私が学ぶための環境づくりをそれなりにがんばって作ってくれたと思います。江蘇・浙江の農村を2ヶ月間調査させてもらえたのは、本当にありがたかった。いまでも感謝しています。
 ただ、当時の留学生はみな中国の閉塞状況に悩んでいたはずです。たとえば、大学の図書館に入れない。開架の図書さえ閲覧させてくれないから、外事弁公室に異義申し立てをする。留学生食堂とか購買部で服務員の態度がひどいこともしばしばありました。学外はもっと悲惨ですからね。商店に入って何かを買おうとしても、女性服務員は私語ばかりして、相手にしてくれない。品物を指定すると、そのモノを放り投げてくる。タクシーの運転手に至っては、おつりを投げ返してきたりするんです。そういうことが頻繁におきる。バスに乗ろうとして並んでいると、後から平気で割り込んでくるし、ひどい時には上着を掴まれて引き倒される。まじめに働こうが働くまいが、礼儀正しかろうが正しくなかろうが、労働者の賃金は変わらない。だから、働かない。態度も悪い。自ずと喧嘩になるわけです。中国人と留学生のあいだに不穏な空気が流れていて、ある時期、政府は留学生を「精神汚染の根源」だと決めつけたりしたこともありました。
 当時、中国は文化大革命の後遺症から少しずつ癒え始めていた。だから、多くの中国人は、不満はあるにせよ「文革よりはマシだ」と思っていたことでしょう。一方、留学生は文革の時代を知らない。平和で豊かな日本からやってきて、中国の悲惨な生活を体験し、中国を嫌いになったまま帰国する日本人は決して少なくなかった。でもね、最近中国を訪れると、あの頃の方がまだ良かったなと思うところもあります。「おれの中国を返してくれ」とこぼすこともあるんです。

――陳従周先生のもとで学ぶことになったのはどういう経緯ですか。
 当時の中国は、指導教官を選べるほど甘くない。中国の教育部が留学生の研究テーマに基づいて指導教官を一方的に決めるのです。陳先生は同済大学の建築史担当教授でして、江南庭園の研究で名を知られていました。もとは文学部の出身で、詩・書・画をたしなまれ、研究者というより芸術家に近かった。「最後の文人」とも呼ばれていました。「詩、書、画、劇、音楽などの芸術に精通している文人でなければ作庭はできない」という思想をおもちでした。大変尊敬しています。江南の民家や都市についても、お詳しい。素晴らしい指導教官でした。


 日中考古学交流の揺籃期 

――中国の南方とは具体的にどのあたりでしょうか。
 ぼくのフィールドは長江以南です。南方の漢族は「漢族ではない」という言い方もできるし、漢族そのものが「民族ではない」という言い方もできる。いろんな民族の文化が融合することによって、黄河流域で中華文明(漢文明)が成立する。漢族というのは、多民族社会を背景に生まれた「都市文明に生きる人びと」であり、徐々に版図をひろげていくなかで、南方各地の民族文化を呑み込んでいく。その結果、黄河流域とは異なる住居が南方各地に多彩に展開し、それはまた周辺の少数民族住居との共通性も一部に保持している。民族学的には表向き「漢族」と「少数民族」に分かれているけど、両者のDNAが近しい関係にあるように、住居建築にも民族固有のアイデンティティを反映する部分と「漢化」によって普遍化した部分があって、それを見極めることを、ある時期、研究の目的にしていました。

――当時中国ではどのような日本人とお会いしましたか。
 中国建築史の大家、田中淡さんは一九八一年に一年間、南京工学院(現東南大学)に留学されていましたが、ぼくが渡華したときにはすでに帰国されていました。村松さんはやはり八一年から北京にきておられて、わたしが北京語言学院で中国語を研修しているとき、清華大学におられました。考古学者も大勢きていました。同期には、東大教授の大貫さんがいます。大貫さんとは二人でよく旅行しました。かれは博物館に行きたがるし、ぼくは街にでて建築や景観がみたいので、結構調整に苦労しました(笑)。京大人文研の岡村さんは村松さんと同期で、ぼくや大貫さんより一年早く来て、半年ばかり早く帰国していきました。奈良県立橿原考古学研究所も三人を二年ずつ中国に派遣していました。これら考古学者の留学先はみな北京大学です。日中の考古学の交流がまさに始まらんとしていた揺籃期と言えるでしょうね。ほかには中国文学、中国語学などの分野の大学院生も結構いましたが、建築を学ぶ留学生はあきらかに例外的でした。村松さんとぼくの二人だけだったんだから。





  1. 2012/02/27(月) 00:10:37|
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