チャイナ・ロビー――日本に戻られたあとどういう経緯で奈良国立文化財研究所に入られたのでしょうか。
そもそも京大と奈文研の考古学は非常に近しい関係にありますが、建築史担当の発掘調査員として採用されたのはぼくが最初です。とにかく「中国屋」がほしかったのだと思います。昨年お亡くなりになった元所長の町田章さんを中心に「日中都城の比較研究」プロジェクトが動き始めていて、中国考古学と中国建築史の若手研究者が必要だったのでしょう。研究所でサッカーが盛んだったのも採用の理由かもしれません(笑)。
――奈良に勤務されている間はご自身の中国民居研究よりも平城京の発掘調査が中心になるわけですね。
奈文研では発掘調査員として毎年3~4ヶ月ずつ平城宮・京を発掘調査したり、日本各地の歴史的建造物を調査していました。奈文研は文化庁直属の研究機関で、文化財保護行政に資する調査研究が公務になります。入所後2年は中国に行くことを禁じられましたが、博士論文を書く必要もあり、住宅総合研究財団の助成金をもらったり、学術振興会特定国派遣研究員になったりして、雲南、貴州、黒龍江などに通い、少数民族建築の研究を再開させました。下っ端の頃は比較的自由で、年に2度ほど中国に行っていました。ありがたいことで、楽しかったですね。
やがて「日中都城の比較研究」プロジェクトの窓口役を任されるようになります。90年代前半の平城調査部には、ぼく以外に佐川さん(東北学院大学)、中村さん(金沢大学)がいて、町田部長を含める4人で「チャイナロビー」と揶揄されるぐらい、中国考古学が勢力をもち始めていた。91年に議定書の調印を交わしたんですが、最初の5ヶ年計画は人事交流ぐらいしかできませんでしたね。96年から第2次共同研究の5ヶ年計画が動き出した。当時の田中所長が申請者となって、漢の長安城桂宮の発掘調査を中国社会科学院考古学研究所と共同でおこなうことになり、毎年3回のペースで西安に通うようになりました。このころは苦労もたくさんありました。日本側が文化庁の研究費を数千万円用意するのですが、中国側は収蔵庫を開けてくれなかったり、現場に日本人研究者を短時間視察させるだけで調査に参加させなかったりして、不平等条約そのものでした。個人的にも、西安や洛陽にはさほど興味がなくて、都城研究そのものを楽しいとは思わなかった。辛い時期でした。
――日本側がそこまで中国で発掘調査したかった理由は何ですか。
当時、日本のどの研究機関が最初に中国を掘るのかで競っていましたからね。奈文研としては他に遅れをとるわけにはいかない。漢長安城桂宮が最初の調査地で、ぼくの転出後は、唐長安城大明宮太液池、北魏洛陽城太極殿の発掘調査をしているようです。
ヴァイブはボビー・ハッチャーソン。
- 2012/02/28(火) 00:34:12|
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