町並みシンポジウム(2)-パネル・ディスカッション 「木綿街道町並み」シンポジウム第3部のディスカッションは第1部、第2部で時間が大幅に遅れたこともあり、およそ30分遅れのスタートとなりました。パネラーとして、講演・報告・コメントをした5人(清水室長、和田先生、苅谷先生、松本課長、私)に加えて、伝建地区の倉吉で長年にわたり行政の立場から町並み保全に取り組んでこられた眞田氏(元倉吉市教育委員会文化財課長)と、木綿街道振興会の小村氏のおふたりが参加。司会は教授です。
ディスカッションは平田の町割り復元研究からスタート。和田先生の本町・新町の復元では、現在の石橋両家が建つ新町通り西面に地銭を納めていた屋敷がなく、江戸中期の本石橋の屋敷地が確認されていません。小村氏によれば木綿街道周辺は江戸中期頃に平田村から平田町・上ヶ分村、灘分村に分かれたそうで、「村」には地銭が課せられず、帳簿にも載らないのではないかとの指摘がありました。仮に本石橋家が村に建つ「民家」であったならば、農家型平面で曳き家の可能性を指摘した私たちの推測にも関係してきます。教授は「遺存地割」研究の重要性を指摘されました。平城京の復元でも、発掘調査をおこなう前から、航空写真と地積図によって条坊をほぼ復元しえたので、同様の歴史地理学的研究によって平田の町割りを復元した上で、地銭帳の記載と重ね合わせるのがよいとコメントされました。

次に石橋両家に関して意見を交わしました。建築年代については苅谷先生と清水室長から、より詳細な調査とくに旧石橋酒造の年代観を把握することの必要性をご指摘いただきました。
旧石橋酒造の活用に関しては、苅谷先生から建物の利便性と安全性が第一に優先されるべきで、それには市との協調関係が不可欠との指摘。これには眞田氏、松本課長も賛同され、行政の立場から、木綿街道の住民主導のまちづくりを高く評価されました。ちなみに、本シンポジウムでは30人以上の地元住民が参加されたとのことです。
「文化的景観」に関する討議では、会場からの質問が2つ取り上げられました。清水室長が講演で示した「DNA」という用語がキーワードになり、建物とそれ以外の要素との「間」を解読し、それらの継続性を評価することが重要であるとの説明がありました。木綿街道においては川並みのカケダシや、命名の由来となった「木綿」との関係をもっと突き詰める必要があるのかなと感じています。
生業や生活を評価する文化的景観の制度は、景観のDNA継承を本質とし、モノ建築の保存にこだわる伝建制度とは反するようにみられがちですが、清水室長や苅谷先生の認識では、文化的景観の概念は伝建制度を包括もしくは補完しうるものであるということです。ただ、文化的景観の選定基準には「都市」の要素は明記されておらず、それが、歴史的町並みを文化的景観として捉えることを難しくしている現実があります。今後、制度も整備されていくことと思いますが、現時点では、文化財保護制度を利用した町並み保全をしていくのであれば、伝建制度のほうが圧倒的に使い勝手が良い、とは清水室長のご意見でした。

司会の教授からは、「出雲平野の築地松と杵築往還の町並み」という広い範囲を重要文化的景観にし、そのなかの木綿街道を重点景観整備地区とか重要建造物保存地区にしたらどうか、という提案がなされ、松本課長は以前に「築地松」が重要文化的景観の候補になったことがあり、苅谷先生からは「築地松」は伝建制度でもやれるというコメントをいただきました。ここでは、環境大学からかけつけたランドスケープ専攻の中橋教授も会場から意見を述べられました(↓)。
今回、シンポジウムを通して文化的景観や伝建の視点から木綿街道の町並み保全について議論が交わされました。これらの成果が地元住民や行政の方々に良い影響を与え、今後の木綿街道における町並み保全活動が住民・行政の協同体制で良い方向に働いてくれることを願っております。研究室としても、未着手の小路や川並みの分析、社寺建築の調査など、継続して支援できればと思っております。今回でひとつの区切りを迎えましたが、調査にあたっては地元住民の方々、振興会の方々には多大なるご協力をいただきました。また、本シンポジウムでは、清水室長、和田先生、苅谷先生、松本課長、眞田様にも多くのご助言をいただきました。この場をお借りしまして、厚く御礼申し上げます。【タクヲ】 ※次回からは、白帯&おぎんの報告です
- 2012/03/05(月) 00:20:29|
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