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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅩ)

01アジャンタ02


天竺の窟院

 昨秋の新疆ウィグル自治区クチャの千仏洞から今回のインド三大石窟寺院に至るまで、1984年頃の中国留学生活に舞い戻ったかのような旅程を強いられている。苦行としか言いようがない。たとえば今回の場合、3月10日(土)早朝に家を出て関空から飛びたち、香港で7時間の待ち時間を凌いで、さらに7時間のフライトに耐え、ムンバイ(旧ボンベイ)空港に到着したのが深夜25時半、つまり11日の1時半(日本時間の5時)であった。出国手続きを終えて外にでると2時半になっていて、ようやく顔を合わせたガイドから「4時半起床」を告げられた。ホテルにチェックインする必要などないではないか。そして、6時40分発の列車に乗った。1時間遅れの列車に8時間揺られて、アウランガバードに到着したのが午後2時半すぎ。ガイドは謂う。「ここからアジャンタまで120キロです」。エローラなら約30キロの位置にあるのだが、日曜(11日)はエローラの休日であり、月曜(12日)はアジャンタの休日なので、このわずかな時間を逃すと、アジャンタの視察が不可能になる。わたしを乗せた車は午後5時10分に山麓の駐車場に辿り着いた。そこから、山上の窟院群までバスに乗る。遺跡に着いたとき5時半になろうとしており、「閉門!」の大声が響いた。ガイドの指示にしたがって「机の下」をばらまきまくり、なんとか手前の何窟かをレンズに納めたが、6時になって、ついにポリスが完全閉門に踏み切った。わたしたちは対岸に渡り、窟院群の遠景を撮影する以外に術がなかったが、まもなく日没がアジャンタとの接点を完全に断ち切った。

01アジャンタ01


 アジャンタからアウランガバードに戻る車のなかで、痺れるような疲弊に心身を抉られていた。それでも、残された力を振り絞り、「二度とあの列車に乗りたくない」ことをガイドに告げ、移動手段を飛行機に変えるよう依頼した。復路に列車を使うと、今度はエレファンタ島の窟院群を見逃すことにもなりかねない。それだけは、なんとしてでも避けなければならなかった。古本で取り寄せた『1Q84』の帯コピーが何度も頭をかけめぐる。

   「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは
   「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

 わたしが1日早い9日(金)に出国していたならば、10日にエローラを2時間ばかり見学し、11日にアジャンタを思う存分堪能できたはずである。しかし現実は、そうではない暗い鏡に映し出されている。


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↑エローラの食堂(じきどう)

02エローラ02


 負の連鎖は数日前から始まっており、東日本大震災の一周忌まで已むことがなかった。すでに9校を重ね、校了を目前に控えていた本報告書の編集工程が頓挫を余儀なくされたのが3月5日。印刷業務を委託していた富士屋の「倒産」を社長から知らされた。研究室全体を混沌が襲い、その夜、教師と社長は弥生町で痛飲した。7日には京都に飛んで、出雲市青木遺跡復元模型の最終監修に臨んだが、ここでも信じられない発言を耳にした。そして、10日から11日にかけて苦行を重ねた上に、アジャンタに半ば面会を拒絶されたのである。
 ところが、翌12日の昼すぎ、風向きが変わる。ウラタバッド要塞の視察を終えて車に戻るや、続々と朗報が飛び込んできた。まず、復路の航空チケットが確保され、追加支払い金の一部がキャッシュバックされたばかりか、ガイドの飛行機代は旅行社持ちとなった。穴場というべきアウランガバード窟院群には狂喜した。「アショカ王造営の石窟寺院も含まれる」というガイドの説明は眉唾であろうが、2~6世紀の開鑿で、キジル千仏洞と同じ中心柱窟やストゥーパを祀るチャイティヤ窟が含まれている。

02エローラ03


 移動時間の長い旅程のなかで、『1Q84』と『河童が覗いたインド』を併読し続けた。後者は「インドについてこれ以上なにも書く必要がない」と思わせるほどの優れた旅行記である。妹尾河童はアジャンタ、エローラとの出会いに打ち震えている。とくに、アジャンタ窟院発見の逸話を興味深く読んだ。1819年、デカン高原の崖の上に虎が出没し、ジョン・スミスという英国軍人が発砲したところ、虎は蔦に覆われた崖の向こうに逃げてしまった。そこで、スミスは双眼鏡で崖を執拗に観察し、石の建造物が蔦の隙間に散見されることをハイダラバ-ドの藩王に報告したところ、王は「それは大昔の石窟かもしれない」と興奮し、崖の蔦を取り除くため民衆をただちに動員した。その結果、27もの石窟寺院群が発見されたのである。

03アウランガバード01


 この逸話を読んで、摩尼寺「奥の院」の巨巌を想いおこさずにはいられなかった。岩窟・岩陰仏堂の穿たれた巨巌周辺の雑木を伐採し清掃することによって、加工段と巨巌が一体化した「奥の院」遺跡の全貌があきらかになる。新年度、その作業を、ナオキくんを中心に進めようと構想していた。ナオキくんは摩尼寺「奥の院」遺跡で修士論文を書いたエアポートくんの幼なじみにして大学の同期生であり、学科卒業後は魯班営造学社の技術員として、研究室の調査研究を支えてくれた。2009年度の加藤家住宅修復第2期工事、2010年度の発掘調査、2011年度のボーリング調査・模型制作など、この3年間、彼なくしてプロジェクトを推進することは不可能であった。ところが、そんな彼も鳥取を離れ、九州に旅立つという。ASALABにとって大きな痛手ではあるけれども、青木遺跡復元研究で卒業論文金賞を獲得したヒノッキーとともに、おおいに祝福して送り出したい。
 またきっと新しい出会いがあり、摩尼寺のプロジェクトを推進してくれるだろうと予感している。3月12日に風向きは変わったのだから。


03アウランガバード02
↑アウランガバードのチャイティヤ窟       
  1. 2012/03/17(土) 01:18:29|
  2. 建築|
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