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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

摩尼寺「奥の院」遺跡の環境考古学的研究(ⅩⅩⅠ)

02宝珠山岩屋神社06


宝珠山岩屋神社・熊野神社

 竹棚田は福岡県朝倉郡の宝珠山村にある。県境を越えれば、大分の日田皿山だ。棚田のすぐそばに宝珠山が聳える。その山が仏界であることを示す名称だが、そこにあるのは寺ではなく、神社であった。これを岩屋神社という。ただし、岩屋権現という別名ももっている。「権現」とは「(仏が)仮の姿で現れた」神であることを意味する。いわゆる本地垂迹思想による神仏習合のあり方を示すものである。
 宝珠山村は、九州修験道の中心地「英彦山」に近接することから、修験道と密接にかかわり、ほぼ全域が英彦山権現の神領とされていた。『岩屋神社来歴略記』によると、起源は継体天皇25年(531)にまで遡る。後魏の僧、善正が渡来して彦山を開創し、翌年、宝珠山で宝泉寺大宝院を開基したと伝える。また、役行者も岩屋に入峰したと記す。六郷満山と同様、神仏習合が著しく進んでおり、宝珠山という「仏界」に岩屋神社(岩屋権現)がある。そこには権現岩、熊野岩、重ね岩、貝吹岩、鳥帽子岩、見晴岩、馬の首根岩と呼ばれる7つの「大岩」が聳え、その一部に社殿が付随する。

02宝珠山岩屋神社02


 山麓の鳥居をくぐり石段を上がるとまずは天然記念物の「岩屋の大椿」があり、さらに上がると琴平宮に至る。巨巌に穿つ隧道(トンネル↑)をぬけて、またしばらく上がると、権現岩の岩陰に建つ岩屋神社本殿(重要文化財)に至る。岩屋神社本殿は元禄11年(1689)の再建で、茅杉皮重ね葺き一重(ひとえ)入母屋造の外殿と厚板葺き片流見世棚造の内殿からなる。内殿の前には薦(こも)で包まれたご神体の宝珠石が祀られているという。
 岩屋神社から左上手の熊野崖の中間あたりに熊野神社(重要文化財)がみえる。伝承によれば、そこは天狗が蹴って穴をあけた熊野岩のくぼみであるという。貞享3年(1686)に村民が建立した板葺き三間社流見世棚造の社殿は、まるで「小型の投入堂」のようにみえる懸造の建物である。彦山は養和元年(1181)、京都の新熊野社(いまくまのしゃ)の荘園として後白河法皇によって寄進され、以後、熊野修験道の影響下に入った。岩壁や岩盤には柱穴などの部材を納める痕跡と思われるピットが複数残っており、中世の熊野社は現在よりもはるかに大きかったと推察されている。

02宝珠山岩屋神社08熊野神社
↑岩屋神社(右)と熊野神社(左)の全景。↓岩屋神社の外殿と内殿
02宝珠山岩屋神社04


02宝珠山岩屋神社05


 インドから帰国して4日めに宝珠山を訪れたわたしは、以下のようなことを考え始めていた。これまで日本の岩窟・岩陰型仏堂、そして中国の石窟寺院を訪問し、わたしたちはおもに木造建築と石窟・岩窟との関係性に焦点をしぼって比較研究を進めてきた。その中間成果は、クチャ訪問時の機上やホテルで書き進め、インドから帰国後、「私学最後の紀要」に掲載された。その中間成果と南インドの訪問はどうつながるのか。アジャンタ、エローラ、アウランガバード(↓)、エレファンタ島の窟院群を訪問して、「木造建築」と呼びうるような部分はどこにも存在しないことがよく分かった。クチャの千仏洞と同じく、「木造」であったのは、おそらく(今は朽ち果てた)窓や扉などの建具だけであったろう。クチャの場合、ただ横穴を掘ってそこに仏像を祀り、壁や天井に壁画を描くのみであったが、南インドは違う。柱や壁・窓・扉などの意匠が見事に石造彫刻として窟院の内部や境界に彫り込まれている。窟内の空間は平地の仏堂と紛いなく、「建築」の空間を体感できる。要するに、古代インド人はチャイティヤ窟(礼拝堂)やヴィハーラ窟(僧院)を平地の寺院とほとんど同じ空間にしたかったのであり、「石窟の建築化」をめざしたということであろう。

図1 アウランガバード窟院


 「石窟の建築化」という見方によって、華北の石窟寺院も説明できる。巌崖に横穴を掘削し、その内側に木造建築の細部や天井を彫りだし彩色する一方で、窟院の前側に木造建築を設け、窟全体を平地に立つ木造の寺院に似せようとしたのである。クチャはどうか。中央アジアの砂漠地域にあって、遊牧民たちは季節の寒暖にあわせ、夏はテント、冬は日干煉瓦を積み上げただけの素朴な家屋に住んだ。その煉瓦積み建物が横穴に表現されているとすれば、ここでもまた「石窟の建築化」という概念によって千仏洞を説明できるだろう。

 日本の場合、華北の石窟寺院のように、窟内に木造建築の細部を表現するものはなく、むしろ木造建築そのものを岩窟や岩陰のなかに納めてしまうのが一般的であろう。若桜の不動院岩屋堂、三朝の三仏寺投入堂がその典型である。これもまた、「石窟の建築化」と呼べるのではないか、とわたしは思っている。巌崖に横穴を掘り(あるいは巌崖の横穴を利用し)、仏像は窟の内側に祀られねばならないが、窟そのものを使うのではなく、窟のなかに木造の仏堂を納めてその内部を祭祀の場とする。仏教儀礼のために建築を必要としているのは間違いないけれども、その場所は岩窟や岩陰でなければならない。それは、ヒトが太古から洞窟・岩窟・岩陰に超俗性を認めているからだろう。以上述べたように、「木造建築」にこだわるのではなく、「石窟の建築化」という視点を取り入れるならば、アジア各地で多様に展開する石窟寺院・岩窟仏堂を説明できると思うに至っている。

02宝珠山岩屋神社07
↑熊野神社
  1. 2012/03/22(木) 12:23:07|
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