明日香はちがう 「奥飛鳥の文化的景観」に触覚が動いたのは3月中旬のことである。当然のことながら、ネットで資料を漁る。重要文化的景観選定(2011年9月)の答申文書には大概以下のようなことが書いてある。
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奥飛鳥地域の記録は皇極天皇元年(642)に遡り、中世末には入谷・栢森・稲渕・畑の四大字が飛鳥川上流域のムラとして成立した。万葉植物の植生が卓越し、豊かな生態系が育まれている。河岸段丘面上や山裾に展開する小規模な集落は斜面地に平場を造成するために石積みを伴う。集落の中には「大和棟」の民家が点在しており、石積みと併せて独特の集落景観を形成している。稲渕では広大な範囲に棚田がひろがる(↑)。棚田には15世紀に遡る井手によって水が供給されており、管理されている。飛鳥川に降りる石段を設えたアライバ(↓)が現在も機能しており,また盆迎え・盆送りが飛鳥川を通じて行われるなど、飛鳥川と強く結びついた生活が営まれている。奥飛鳥の文化的景観は飛鳥川上流域の地形に即して営まれてきた居住の在り方と農業中心の生業の在り方を示す価値の高い文化的景観である。
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こうしたネット情報を彷徨しているうちに、「
奥明日香さらら」というサイトに出会った。明日香村栢森(かやのもり)に所在する古民家改修レストランの公式HPである。HPのなかの「奥明日香さららのあゆみ」という項を読むと、以下のような沿革が示してある。

平成14年8月: 「神奈備の郷活性化推進委員会」発足。同時に女性を中心とした「特産品研究開発部会」の活動がスタート。
平成15年春: 地元で採れた野菜や山菜を中心とした食材で「作り手の見える食事提供」をコンセプトに、休耕地や空き民家を活用して「さらら膳」の提供を開始。(年に数回イベント開催~平成19年まで続く)
平成20年春: 栢森に「奥明日香さらら」を開店。現在も村おこしの拠点となる。
ぜひともお話を伺いたいという気持ちが強くなり、さっそくメールを送信して訪問日時の調整に入った。わたしは所属機関名こそ打ち明けなかったが、「建築史」と「文化的景観」の研究者であることを告白し、報告書2冊を持参することをお伝えした。「奥飛鳥の文化的景観」選定をむらおこしの一助とされようとしているのならば、わたしたちが鳥取で作りあげた文化的景観の報告書が役立つこともあるだろうと思ったからである。
3月末、雨や通夜や歯の治療にスケジュールを分断されながらも、なんとか時間を確保して栢森の「さらら」に辿り着いた。昼食は予約している。さらら膳(2000円/要予約)と黒豆うどんランチ(800円)。席についてまもなく報告書を給仕の方にお渡しした。


しばらくして、店主とおぼしき女性があらわれた。
「報告書いただきまして、ありがとうございます。わたしらには、ちんぷんかんぷん
ですけど」
「えっ、『奥飛鳥の文化的景観』に係わる活動をされているんでしょ?」
「いえ、あの文化的景観ていうんでっか、あれ、住民は、あんまり歓迎して
おりませんで」
「それはまたどうして?」
「(しばらく息を詰まらせた後で・・・)この明日香村いうところは、昔から
文化財やら景観の保護の対象地にずっとなってきたもんですさかい、あぁ、
また一つ似たようなのが加わったんかいな、というようなふうに住民は思てます。
他の地域でしたら、喜びはるんでしょうが、明日香は違いまして・・・」

正直、驚いたし、気持ちが萎えた。飛鳥は他の地域とは違う、という物言いは、おそらく以下の制度的変遷を背景としたものであろう。
1966年 明日香村が古都保存法によって「古都」に指定
1967年 歴史的風土保存区域、歴史的風土特別保存地区の指定
1970年 「飛鳥地方における歴史的風土及び文化財の保存等に関する
方策について」を閣議決定
1971年 「飛鳥国営公園の整備方針について」を建設大臣決定
1980年 いわゆる明日香法(明日香村における歴史的風土の保存及び
生活環境の整備等に関する特別措置法)の施行
このような制約を明日香村に住む人々が必ずしも歓迎していない、というように受け止められたが、「明日香は違う」という発言に接して、ただちに、天草崎津のNPO「
南風屋」、日田皿山の「
池の鶴山舎」、そして雲州平田「木綿街道振興会」などが思い浮かんだ。過疎地の振興に尽力しようとされている方々にとって、重要文化的景観や重伝建の制度はこの上ないブランドになっている。しかし、「明日香は(それらの地域とは)違う」というのだから、これ以上、話を続ける意味はない。
さらら膳と黒豆うどんランチがまもなく運ばれてきた。場の空気にふさわしい味がした。★一つ。【続】

↑畑谷川の女渕。上の2枚はいずれも栢森のアライバ。
- 2012/04/02(月) 23:53:01|
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