いざ、三徳山へ どうも白帯です。
17日、鳥取県唯一の国宝に指定「投入堂」がある三徳山に登ってきた。(エイ)出版社の雑誌『Discover Japan』の次号で建築の特集が予定されており、、三徳山三仏寺投入堂についても8頁を組むことになり、先生が構造と歴史的観点からインタビューを受けた。また、ぼくの卒業研究に深く関係がある。天候が心配だったが、三徳山に近づくにつれ、晴れ間がひらがっていき一安心だ。道中、車の中で、先生は娘さんに「猪八戒」と言われたことを気にしていた。だが、先生は「長州小力」級だと否定している。医者にも注意されていたようで反省していた。年齢を重ねるにつれ苦労することがうかがえた。
三徳山は修験道の行場として名を知られている。山伏の修行が盛んに行われていたころ、裏行場、上段行場、中段行場、下段行場と呼ばれる4つの行場があった。三徳山の地形は起伏に富んでいるため、難所も多く、きびしい行場であった。下段行場が、現在の参拝登山道である。ここを登っていく。
参拝受付案内所で出版社の方と合流し、投入堂へと向う。石段を登り、本堂(↓)にお参りをした後、本堂裏にある登山事務所で手続きをした。ここが恐怖の始まりである。
投入堂登山の心得として、
・入山届を提出すること
・2人以上で入山すること
・靴の確認を受けてから入山すること
・立ち入り禁止区域には、入らないこと
・荒天時は、入山を禁止するが掲示してある。これらを守ることで登山での安全を確保するのだ。
宿入橋が修験道の入り口である。そこから登っていくと、十一面観音堂が見えてくる。春日造こけら葺のお堂である。汗をかきながら進むと三徳山登山で最初の難関であるカズラ坂を通る。カズラ坂は、木の根が縦横に交差する坂で、両手を使って木の根をつかみながら登っていく。急な坂でしっかり木の根をつかんでいないと危険きわまりない。先生もしんどそうだったが、ぼくもとても登るのがしんどくて、体力をつけないといけないと痛感した。

↑急な坂で滑りやすく危険
生まれてくるんじゃなかった・・・ 次の難関はクサリ坂だ(↑)。文殊堂の手前にある急斜面の岩をクサリ一本で登っていく。高所恐怖症のぼくはかなり恐怖した。しかし、その先では、もっと怖い体験をした。登って行くと文殊堂が見えてきた。大きな巨岩の上に絶妙なバランスで懸蔵のお堂が建っていて、国の重要文化財に指定されている。文殊堂の本尊は文殊師利菩薩で「勝手権現」と呼ばれている。修理中に仏像が安置された須弥檀(しゅみだん)の裏で発見された墨書きから、永禄10年(1567)の建立と推定されている。お堂の縁を一周することができるが、勿論いやなのだ。縁に手摺はなく、水切り勾配がついている。スリル満点。雨水と同じように縁の下に落ちるのではないかと考えてしまい、怖い。だが、出版社の要求はきびしい。先生とタクヲさんとぼくの3人が縁に腰掛け、正面の山並みを眺める写真が撮りたいという無茶?な要望をしてきた。勇気をだし縁に足を出し座ってみたが、とても無理で、出版社の方にあきらめてもらい、三角座りで撮影してもらうことになった。撮影が終わり安堵していたのだが、その先の地蔵堂でも撮影することになる。

↑あまりの高さにおびえるボク
地蔵堂は文殊堂と同じく巌崖の上に建っており、やはり眺めも絶景で、お堂の周りを一周できるようになっている。地蔵堂の本尊は子守延命地蔵菩薩で「子守権現」とよばれている。建築様式から室町時代(16世紀)の建立と推定され、建物内部には兵火によって寺を焼かれた僧の墨書が残されている。混乱による焼失と再建が繰り返されたことがうかがえる。文殊堂と同じく、地蔵堂も国指定の重要文化財である。ここでまた、縁で写真撮影をさせられた。生まれてくるんじゃなかった・・・
鐘楼堂にある鐘の音は、煩悩を消す。登山の疲れも忘れ、心を静めることができる。ここで少し、心身を休めた。
次に現れたのは馬ノ背・牛ノ背だ。登山道最後の難関。滑落の死者がしばしばでる細い岩の道。両側が崖になっている。平均台を渡るかのように慎重に進んでいく。この険しい道のりをこえると納経堂が見えてきた。納経堂は平安時代の建築である。国指定の重要文化財。岩陰に建てられた懸蔵のお堂で、神社ではないけれども、「春日造」の様式をもつ建築としては日本最古のものである。【続】

↑馬の背
- 2012/04/22(日) 23:52:04|
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