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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

むきばん建築クリテイーク(Ⅰ)

01妻木山01竪穴02


周堤のみえない竪穴住居群

 妻木晩田(むきばんだ)遺跡の整備事業が一段落したというべきか、完全に終わったのか、よく存じ上げないのだが、グランドオープンセレモニーなる催しが28日(日)開催された。県職員の言を拝借するならば、「先生もいちおう来賓ですから」ということで、出席させていただいた次第である。
 昨日、「廃材でつくる茶室」への回帰が4年ぶりであることを述べたばかりだが、どうやら時計は同じサイクルで巻き戻されている。妻木晩田を訪れるのも4年ぶりになるはずだ(5年ぶりかもしれない)。

 読者の誤解を招いてはいけないので、ここではっきり書き記しておこう。
 私は、新装開店された妻木山地区の復元「建設」に関与していない。しかしながら、復元「事業」に完全に関与しなかった、と言い切れないところに憾みがある。基本設計に先立つ模型制作までつきあった。その作業は最初から大きな困難を抱えていた。妻木山地区の竪穴住居はすべて「草葺きで復元する」という方針が基本計画で固められていたからだ。遺跡整備の基本計画がそうだから草屋根にする、という行政の考えに私は納得できなかった。そんなねじ曲がった前提は、研究者に通用しない。遺構を精査し、復元模型を何度も試行錯誤のうえ制作し検討を重ねることで、上屋構造の形がみえてくる。結果として、構造がみえにくい場合もあるけれども、最初から草屋根だと決めつけるのは科学的な態度とは言えない。

01妻木山01竪穴01


 草屋根と土屋根では構造が異なる。前者は勾配が急であり、後者のそれは緩い。前者の場合、垂木は丸太で配列が疎ら、小舞上に茅を縦葺きするだけだが、後者の場合、垂木は板状で密に配し、木舞上の茅はまず横方向に並べ、その上に縦葺きした上で土を被せる。これを竪穴の深さや周堤の幅・高さなどと連動させながら、上部構造を推定していく。土と草でどちらがふさわしいかは模型の納まりで最終的に判断される。

 ここで、模型制作のプロセスを回顧すると、平地にたつ竪穴住居は草屋根でも土屋根でも納まった。ところが斜面に立地する竪穴住居は、模型制作を通して論理的に思考を重ねていくと、草葺きでは納まらないことが判明したのである。県側の若い担当者は「背面側だけ土で覆い、正面側は草を露出させてはどうか」という奇っ怪なアイデアを提出したので、「そんな無茶をしたいなら、あなたの署名入りでやりなさい」と指示した記憶がある。29日、その竪穴住居をみると、越屋根以外は土屋根になっていた。至極妥当な復元であり、結果としてみれば、私の意見を受け入れたことになる。ありがたいようで、そうでもない。むず痒いところがある。他のすべての竪穴住居は草葺きになっているからだ。「居住単位」として同時に存在した複数の竪穴住居が1棟だけ土屋根だったとみなす学術的根拠はどこにもない。他の竪穴住居については、土屋根と断定できないのは確かだが、草屋根と断定できる証拠も同時にありはしない。ならば、残りの1棟(斜面にたつ竪穴)をよりどころとして、「居住単位」を構成する竪穴住居すべてを土屋根に復元するしかなかったのではないか。

02洞ノ原02環濠03竪穴草葺
↑洞ノ原先端の草葺き竪穴住居(明日の記事を参照)。

1997妻木山43号写真のコピー


 そもそも、妻木山地区においては、1997年に日本で最高レベルの焼失住居跡がみつかっている。弥生後期とされる妻木山43号住居では、密に配された板状垂木-横方向の茅-縦方向の茅-焼土(屋根土)が明確な層序関係をもって検出された(↑)。これが土屋根でなくしてなんだというのか。こういう学術的根拠をないがしろにして、メンテ最優先の立場から「妻木山は草葺き」と決めてかかる基本計画こそが間違っていたのである。

 この模型制作を最後に私は妻木晩田の復元事業から離れていった。したがって、基本設計図、実施設計図を一度もみていないし、原寸検査に参加してもいない(高床倉庫のプロポーションをみる限り、原寸検査をおこなっていない節もある)。ちょうどそのころ、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡出土建築部材の分析と復元研究が佳境を迎えつつあり、そちらほうが遙かにおもしろかったから、そして、家内の病が最悪の時期であったからということにしておこう。そういう要素がいっぱい絡み合って、やる気を削がれた。その責任を一定の人物に押しつける気持ちはない。問題は「体制」であった。

 妻木山の草葺き竪穴住居で奇異に映ったのは、草葺き屋根が周堤を覆いつくしていたことである。周堤はたんなる土手ではない。屋根構造の基礎である。垂木は周堤のほぼ中間の位置にめぐらされる。垂木などの屋根を組んでから、周堤の土を絡めて小屋組を安定させるのだ。そういう構造的特性を考えるならば、草が周堤を覆うような納まりになるはずがないのである。少なくとも、初期整備(2001~03)の竪穴住居でそんなことはしていない。田和山でもしていない。どうして、初期整備や田和山を範としないのか、理解に苦しむところである。周堤のみえない草葺き竪穴住居を目の当たりにし、三内丸山と同じだと思った。

 土屋根の天敵は「水」である。しっかりした防水処理を施さないと、木部が腐食し始める。私自身、それで何度も失敗したが、山田上ノ台(仙台)や田和山(松江)ですでにこの問題もクリアした。一方、メンテ重視で草葺きに復元された竪穴住居の弱点は「火」である。日本全国多くの遺跡で草葺き竪穴住居が火災にあっている。同じ遺跡で何度も焼失し、建て替えられた草葺き住居だってある。妻木晩田は「洞ノ原炎上」を教訓にできるだろうか。【続】

02洞ノ原02環濠02崩落01竪穴02
↑洞ノ原環濠地区の草葺き竪穴住居は先日の突風で荒廃が目立つようになっている。この問題については明日言及します。
02洞ノ原02環濠02崩落01竪穴01

  1. 2012/05/03(木) 23:33:02|
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