高床倉庫の比較 年度が改まり、初期整備で労苦をともにした文化財の専門家が妻木晩田事務所に復帰し、所長に就任した。文化財関係者が6年ぶりに遺跡の責任者に返り咲いたのだ。目出度い。これで遺跡も真っ当な方向にむかうであろう。この人事異動がなければ、私がセレモニーに参列することはなかったはずだ。
昨日述べたように、2006年から08年にかけて青谷上寺地遺跡出土建築部材の分析と復元研究に熱中していた。その際、青谷上寺地の部材を使って妻木晩田の大型高床倉庫を2棟復元し、CGで表現している。どうも、このCGが妻木山の復元建物に良くない影響を及ぼした感がある。
妻木山地区の復元建物では、屋根倉の出来が抜きんでてよろしくない。細い柱の上に大きな屋根をのせていて、全体のバランスが崩れているし(↑)、軒の出が長すぎる(↓)。洞ノ原の初期整備で復元した屋根倉(下2枚の写真)と比べれば明々白々。私たちは、青谷上寺地研究で屋根倉のCGを制作していない。だから、なぜこうなったのか、さっぱり理解できない。

一方、大型の板倉(次ページ上の写真)については、私たちの復元CGを意識し、それを表現することで良しと判断されたのかもしれない。これも困ったものである。われわれのCGはいわば見栄えの良いエスキスであり、基本設計図でもなければ、実施設計図でもないからだ。なにより重要な作業は、実施設計図に基づく「原寸検査」であり、ここで実物大レベルでの寸法チェックを目を凝らしておこなう必要がある。初期整備の建物はすべて厳しい原寸検査のプロセスを経ており、そこで、軒の出や床高などを細かく調整している。
妻木山視察後、洞ノ原の初期整備地区を再訪し、ずいぶん気持ちが落ち着いた。何度も述べておくが、洞ノ原の初期整備のほうが遙かに出来がよい。屋根勾配、軒の出、全体のバランス、いずれも秀でている。本来ならば、初期整備建物を叩き台にして、妻木山の整備でより質の高い復元建物を実現しなければならなかった。が、妻木山でレベルは落ちた。レベルが落ちたのは、私が監修しなかったことに一因があろうけれども、昨日も述べたように、なにより「体制」に問題があった。
復元建物は舐められている。竪穴や高床など、だれにでもできる。そう思いこんでいる人物が少なからずいる。だから、こういうことになってしまうのだ。妻木晩田は、弥生集落整備における「聖地」となるはずだった。妻木山43号という全国に比類なき焼失住居跡があり、加えて青谷上寺地7000点の建築部材研究の成果をバックグラウンドにしつつ、実証性の高い復元をめざし続けていれば、縄文集落遺跡整備における御所野に比肩しうる史跡公園になっただろう。御所野が三内丸山の反面教師であったように、妻木晩田は吉野ヶ里に対するクリティークになりえたのだが、現実には平々凡々たる復元建物が軒を連ねる展示場と化した。吉野ヶ里は安堵していることだろう。

↑↓洞ノ原の屋根倉


↑↓板倉の比較。(上)妻木山 (下)洞ノ原
突風で倒壊した屋根倉の問題 洞ノ原の風景には相変わらず息を呑んだ。絶景哉、絶景かな・・・妻木山地区が整備されたとはいえ、今後も洞ノ原が最も重要なビューポイントであり続けるだろう。ところが、環濠に下っていく階段の手前で通行禁止になっていた。そんな標識を無視して、わたしは一人環濠に向かう。途中にあらわれた草葺きの竪穴住居は、施工のさい屋根構造で苦しんだが、今では妻木晩田になくてはならない添景となっている。妻木山がこのモデルに倣わなかった理由を心底知りたいと思った。
環濠の端に行き着くと、2棟の高床倉庫のうち屋根倉が倒壊していた。先日の突風で崩れ去ったのだという。トラックを3台も横転させた突風である。風の強い環濠先端で屋根倉が崩れたのはやむを得ない。隣の竪穴住居もずいぶん茅がぬけ散乱ていた。屋根倉は再建、竪穴住居は修復が急務と言える。
洞ノ原の再建や修復が妻木山レベルに堕することがないよう祈っている。
あるいは、今回の倒壊を契機にして、洞ノ原先端部には中期の環濠を再現し、現在の復元建物をガイダンス施設の近辺に移築することも考えたほうが良いかもしれない。基本計画がいったい何だというのだ。鳥取城にしても、古くさい基本計画を今なお金科玉条のように扱っているが、時勢は刻々と変わっている(文化財の世界は東日本大震災をどう捉えているのか)。洞ノ原の先端には強風が吹く。今後も建物の倒壊や荒廃を招く危険性は高い。基本計画からの大胆な変更があって然るべきだと私は思っている。【この項、いちおう完】

↑突風で倒壊した洞ノ原環濠エリアの屋根倉
- 2012/05/04(金) 23:39:57|
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