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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

河合事件の旗本たち -鳥取藩史を中心に-

1.はじめに

 仇討は、仇(かたき)を討つ者と討たれる者とに焦点が当てられ語られることがほとんどである。今回取り上げる「伊賀上野仇討」も、同様に渡辺数馬とそれを助ける荒木又右衛門、仇である河合又五郎を中心として語られることが多いが、この仇討の特徴として仇討に至るまでの経緯に河合又五郎の身柄を巡る大名である池田家と旗本と交渉がある。この交渉は当事者である渡辺数馬が関与していないという特徴があり、池田家と旗本との間で行われた。その過程で外様大名と旗本との激突になったとされる大きな出来事となり(1)(2)、多くの人物が関係したとされる。池田家側では伊達家や蜂須賀家が関与したとされ、旗本は安藤次右衛門・阿倍四郎五郎・久世三四郎といった主要の三名の名前は挙がるものの、それ以外の人物は一定せず(3)、また実際にどのような行動をとったかは定かではない。今回はその旗本たちに注目し、簡潔であるが整理を試みた。なお、便宜的に河合又五郎の源太夫殺害から交渉までを「河合事件」と呼称し、紹介する旗本たちの表記は『寛政重修諸家譜』に従っている。
 今回中心とする資料は『鳥取藩史』第6巻事変志所収の「渡辺数馬及荒木又右衛門を鳥取に引取る事 事変志 附伊賀上野仇討始末」(以下、伊賀上野仇討始末)を参考とした。鳥取藩史において伊賀上野仇討は第一巻「藩士列伝」において渡辺数馬と荒木又右衛門の項で紹介されているものの、第六巻において「事変志」において改めて記載している。これは、藩史編纂の過程で荒尾男爵家から発見された史料され、同書の編纂委員をして「忠雄公と旗本との交渉は従来の伝説相違せるを発見したるを以て」記載している。この「伊賀上野仇討始末」は特徴として、荒木又右衛門の遺品の一つであり一次資料とされる『渡邊数馬於伊賀上野敵討之節荒木又右衛門助太刀討候始末』(以下、仇討助太刀始末)に記載されている安藤次右衛門・阿倍四郎五郎・久世三四郎といった主要の三人の旗本との交渉に加え多くの旗本の名が登場し、老中との交渉が詳細に記載しているということが挙げられる。

2.旗本との交渉について

 河合事件における旗本との交渉を「伊賀上野仇討始末」から概略的に解説する。
 寛永七年(1630)七月二十一日に河合又五郎が渡辺数馬の弟・源太夫を殺害、捕まることなく江戸へ逃れ、旗本の安藤次右衛門に匿われる。当時の藩主・池田忠雄は又五郎の父・半左衛門に期日を設け又五郎を捜索し切腹させることと、期日は過ぎれば半左衛門に切腹させることを命じ江戸へ参勤する。
 寛永八年(1631)一月三日には家老の荒尾志摩に旗本の阿倍四郎五郎・久世三四郎が面会しており、この頃に交渉が開始されたようである。この交渉においては又五郎の切腹が決まるが、半左衛門が備前にいる内に又五郎が切腹すれば本人も切腹する覚悟であったので、阿倍・久世から佐用に移す事が忠雄に提案されるが、半左衛門が拒否。二人は病と称して一時中断した。この周旋には加々爪民部少輔と太田采女正が周旋を行なった。
 交渉は五月十二日ごろから再開されており、半左衛門を備前からどこへでも立ち退かせることに決まる。忠雄ははじめ難色を示したが、賀爪民部少輔と太田采女正に加え水野河内守・榊原左衛門佐らから周旋や、阿倍・久世らが加々爪や太田に請合状を出しそれを呈示することで承諾している。九月に半左衛門が備前立ち退いた報が忠雄に入り、又五郎引き渡しの交渉を行おうとするが、旗本側は派遣した塚田勘右衛門が帰ってきていないとして引き渡し延期申し入れる。しかし間もなく旗本側は又五郎の逐電を発表、閏十月二十日に阿倍・久世らは谷中感応寺に謹慎する。同時に二人は安藤帯刀や堀丹後、青山大蔵少輔らに忠雄の怒りを解くよう周旋依頼しているが効果はなく、忠雄は江戸城登城を控え河合父子どちらか一人の引き渡しを主張した。これにより老中はひとまず半左衛門を一族の池田備中守の邸宅に預けること決め十一月十七日夜に送られた。これにより事件は一先ずの落着を見せる。
 しかし、加々爪は半左衛門の救うため天海に周旋を依頼し、老中からはこれで忠雄を目的は一部達成となるので半左衛門を許してはどうかなどと問われる。忠雄は老中に対して半左衛門を許せば面目にも関わるとして拒否。老中は忠雄に半左衛門を渡すことにし池田備中守の領地に移されることとなった。しかし、移送の準備やその申し合わせに時間を要していると寛永九年(1632)一月二十四日に徳川秀忠が死去し一旦沙汰止みとなる。その後も加々爪は老中の土井を介し、秀忠死去の恩赦や忌中を理由に半左衛門の救解や移送の引き延ばしを行い、移送が実行されぬまま四月になると三日に忠雄が、七日に備中守が死去した。
 忠雄の死後は弟の輝澄と輝興が交渉を引き継ぎ、二人は老中からの半左衛門を許してはという問いを退け、将軍の直裁を仰ぐことに決めたるも尾張大納言に諭され断念している。半左衛門は蜂須賀阿波守に預け替えとなり、護送中に死亡した。阿倍・久世・安藤の三名は不首尾により公儀を憚ったとして百日の寺入りとなり、又五郎は旗本庇護を受けることができなくなった。
 多少長くなったが、以上が「伊賀上野仇討」での河合又五郎の身柄を巡る経過である。又五郎に関する直接の交渉では阿倍四郎五郎・久世三四郎・安藤次右衛門の他、旗本では加々爪民部少輔・太田采女正・水野河内守・榊原左衛門佐の名が記されており、他に松平式部大輔・掘丹後・安藤帯刀といった大名の名も見える。


3.旗本たちについて

 さて、上記の7名の旗本と3名の大名についてどのような人物であったかは表にまとめた(表1参照↓)。表は彼らが河合事件までどのような経歴で事件当時どのような役職であったかや交渉においてどのような役目であったか、彼がどうなったか簡潔を記した。また、交渉を調べる過程で、松平式部大輔に池田光政を介した周旋を依頼している事に注目し、池田家に出入りしていた阿倍・久世以外に周旋を行った人物が池田家と関係があるのではないかと考え、彼らと池田家の関係も記している。


203修正表1「渡辺数馬及荒木又右衛門を鳥取に引取る事 事変志 附伊賀上野仇討の始末」の旗本一覧



 まず、交渉後の略歴から見てみたい。安藤次右衛門は寺入りした年寛永九年に布衣を許され、阿倍四郎五郎は翌寛永十年に江戸城普請奉行、久世三四郎は寛永十二年に百人組頭になるなど、公儀を憚り寺入りとなったがその後に栄達の道が断たれたわけではなく、昇進や加増を受けていることが分かり、他の旗本や大名も同様である。このことから、主要三名の寺入り以外、旗本側の関係者は幕府からのペナルティーを受けていなかったことが窺える。次に池田家との関係である。安藤次右衛門を除くとなんらかの形で事件前から池田家との関係があったことが分かる。3名は池田家の公儀の窓口として、5名は池田家と縁戚という形で、1名は祖父の仇としてである。仇としての安藤帯刀はともかく、阿倍・久世らも交渉前まで「宰相様江御心安御出入ニ付候而」と記されているように良好な関係を築いており縁戚関係にある人物も同様のことが窺える。また、阿倍四郎五郎や加々爪民部少輔、榊原左衛門佐は山本博文氏によれば細川氏や毛利氏といった外様大名と良好な関係であったことが分かっており、河合事件がその関係に作用した形跡は見られない。

4.まとめ

 以上、「伊賀上野仇討始末」に登場する旗本側の人物について簡潔まとめてみた。旗本だけでなく大名まで池田家に周旋している事や交渉に関わった人物の多くがそれ以前から池田家と何等かの関わりがあったことが理解できた。彼らは主として池田家に対して周旋を依頼されており、その中には池田家と縁戚関係にある人物が多くを占めている。これは、断定はできないものの、周旋にあたり縁戚関係を頼みに依頼されたものと考える事ができる。また、外様大名と旗本との激突になったとされる河合事件であるが、少なくとも「伊賀上野仇討始末」ではそのような記述はみられない。又五郎逐電に関しても忠雄は「夫両人御悪み被成候事」(『仇討助太刀始末』)と阿倍・久世のみを恨み、匿った安藤次右衛門や周旋した旗本や大名は含まれていないことや、長久手の戦において安藤帯刀が池田恒興を討ち取ったことが遠因として挙げられているが、その本人が周旋しているが事態が悪化した形跡もみられない。これらはこれまで言われてきた「外様大名と旗本との激突」と様相とは異なる印象を受ける。『鳥取藩史』の編纂者も「多くハ碑史小説又は訛伝に謬られたるものゝの如し。」(4)と言及しているように、伊賀上野仇討はこれまで講談や実録体小説等の内容が史実ように語られることが多く、それを先人たちが研究によって史実を詳らかにし現在に至っている。河合事件における交渉も、同じようにこれまでとは別の可能性を見出すことができるのではないだろうか。
(野際晃喜・ゼミ2期生・玄忠寺荒木又右衛門記念館ガイド)

<注>
(1)田中芳兼(2003)『新説・荒木又右衛門』玄忠寺
(2)大久保弘(1965)『荒木又右衛門抄』荒木会
(3)主要の三名以外は『伊賀越敵討研究』(中林、1922)では大久保彦左衛門、坂部三十郎、上村善次、『荒木又右衛門小傳』(梶川、1936)では加々爪民部、太田采女、『荒木又右衛門抄』(大久保、1965)では加々爪、太田に加え、兼松又四郎、近藤登之助、水野河内守、榊原左衛門佐となっている。
(4)他に上野典子(1987)「伊賀越敵討物『殺報転輪記』の転成」(『近世文芸』47号 P1-27)では、最も流布した伊賀越敵討物である「殺法転輪記」の変遷がまとめられているが、上野氏によれば「伊賀上野仇討」は実説にはじまりそれが読物転換、江戸後期には事実らしさの放擲、自由奔放な脚色挿話がなされたとしている。

<参考文献>
上野典子(1987)「伊賀越敵討物『殺報転輪記』の転成」『近世文芸』47号 P1-27
大久保弘(1965)『荒木又右衛門抄』荒木会
小川恭一(2006)『徳川幕府の昇進制度―寛政十年末旗本昇進表―』岩田書院
梶川栄吉(1936)『荒木又右衛門小傳』荒木会
田中芳兼(2003)『新説・荒木又右衛門』玄忠寺
鳥取県(1969)『鳥取藩史』第一巻
鳥取県(1971)『鳥取藩史』第六巻
中林楓水(1922)『伊賀越敵討研究』伊賀時報社
三上参次編(1922)『寛政重修諸家譜』第1輯 國民圖書
三上参次編(1923)『寛政重修諸家譜』第2輯 國民圖書 
三上参次編(1923)『寛政重修諸家譜』第3輯 國民圖書
三上参次編(1923)『寛政重修諸家譜』第4輯 國民圖書
三上参次編(1923)『寛政重修諸家譜』第6輯 國民圖書
山本博文(2003)『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』 講談社
山本博文(1993)『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』 読売新聞社
吉岡徳太郎(1963)『池田家履歴略記』 日本文教出版

<参考URL>
『玉滴隠見』巻十一(高知県立高知城歴史博物館所蔵
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-000703)

  1. 2021/03/04(木) 00:39:50|
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