県埋蔵文化財センターの高尾・大川両君が、琴浦町の梅田萱峯遺跡Ⅰ区SI3・SI6、箆津乳母ヶ谷第2遺跡SI5・SI6の分析図を携えて来室。昨年春から取り組んできた焼失竪穴住居調査の成果を検討するためである。どちらもこちらも年度末で、二人は報告書原稿の執筆に追われている。小一時間ばかり説明をうけたが、遺構解釈に大きな問題はなく、このまま執筆が順調に進むことを祈るばかりである。
その後、演習室に置いてある富山市打出遺跡SI01の模型をみてもらった。利蔵の卒業制作である。模型そのものよりも、その下に張ってある遺構図をみて、二人は驚いていた。炭化材の残り方がすさまじいからである。梅田萱峯では焼け方が弱くて、周堤近くの部材は炭化せずに朽ちており、焼土も少ない。対して、箆津乳母ヶ谷では焼土はひろい範囲にひろがっているが、焼け方が激しすぎて炭化材の量は少ない。ところが、周堤上に炭化材と茅を残している。周堤に炭化材を残す焼失住居跡は全国的にみても稀少であり、火の勢いが垂木尻にまで及んだことを示している。打出の場合、周堤そのものが削平されているけれど、炭化材は中央部分をのぞいてまんべんなく残存している。高尾くん曰く
「適度な焼け方ですね・・・」
同じ茅葺き下地の土屋根住居であるとはいえ、焼け方によって出土状況はがらりと変わってしまうものだ。考古屋はその焼け方を隈なく注視し、建築屋はそこから復元の情報を読み取る。どちらも楽しい仕事である。

また吹雪いてきた。夜になって積雪が増している。
- 2006/02/08(水) 22:41:05|
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