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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

裸足のストゥーパ -スリランカ仏教紀行Ⅱ

 旅程: ネゴンボ→クルネーガラ(休憩)→アヌーラダプラ→ミヒンタレー→ダンブラ(泊)

イスルムニヤ精舎、スリー・マハー菩提樹、ルワンウェリ・サーヤ大塔、トゥーパーラーマー・ダーガパ、ボーディガラ寺院跡、アバヤギリ大塔(修復中)、クッタム・ポクナ(2つの沐浴池)、ミヒンタレー食堂跡・会議場跡、同アムバスタレー大塔、同インビテーション・ロック、同マハー・サーヤ大塔[以上、すべてが世界文化遺産]

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↑↓ミヒンタレーのアムバスタレー大塔
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 スリランカ中央北寄りの内陸地帯にある3つの都市、アヌラーダプラ、ボロンナルワ、キャンディを結ぶ大きな三角形の内部には無数の古代文明遺跡が散在しており、このエリアを「文化三角地帯Cultural Triangle」と呼んでいる。その最北端に位置するアヌラーダプラのレストランに到着したのは昼すぎであった。朝食とあまり変わらないバイキングの昼食をとって、セイロン紅茶で腹ごなししていると、通訳のスサンタさんが近寄ってきて、
  「ゆっくり休んでくださいね。外の庭園に出て、湖の景色などみて、もう少し時間を使ったほうがいいです。いまストゥーパに行くと、いちばん暑いですからね。」
 言われるままに時間を過ごすことにしたものの、タイやカンボジアやジャワで仏教遺跡を尋ね歩いてきた経験からいえば、「多少暑くてもさほど問題はないのに」と悠長にかまえていた。スサンタさんが、車内で訊いてきた。
  「サンダルか何か、その手の履き物をもってきていませんか?」
と問われた。その質問を、わたしは「サンダルのような履き物は仏教寺院では禁じられていますから、ちゃんとした靴を履いてくださいね」という意味に捉えていたのだが、
  「境内では裸足にならないといけないのです。靴下は許されますが、靴は門前にあずけますので」
というまったく異なる指示がイスルムニヤ精舎参観の直前にあり、驚いた。靴下で境内をあるくといっても、砂地がほとんどだから、靴下は汚れてしまう。結果、靴のなかは砂だらけになってしまうから、裸足で歩くしかない、と決断した。

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↑イスルムニヤ精舎 ↓ストゥーパのまわりで動けなくなったHokano
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 「文化三角地帯」はドライゾーンとも呼ばれ、スリランカで最も蒸し暑い内陸地域であり、とりわけ3月末から4月にかけての日差しが強くなる。今日は摂氏33度というが、体感温度はもっと高い。問題は足下である。砂はフライパンのようになっている。歩足をとめてしまうと、そのまま足の裏が火傷になりそうな温度に上昇していて、飛び跳ねるように境内を歩き、日陰を探す。日陰に足をおいていると、なんとか立っていられるが、そのまま止まっていても紀元前3世紀の建立というストゥーパ(現地ではダーガバという)にたどり着けない。ストゥーパは小高い岩山の上に建っている。ストゥーパのまわりは正方形の石畳のテラスがあり、砂地から石畳の道を上ってゆくのだが、この石畳がまた猛烈に熱くなっている。欄干の影を踏み続け、ストゥーパのまわりにやってきたものの、ストゥーパの片側には影がない。だから、ストゥーパの片側には足の置き場がなく、周囲を一周するのに苦労した。同行していた学生にも、塔を周回して、できるだけ写真をとるように指示したのだが、半周でギブアップした。移動のタクシーのなかで、学生は
  「足の裏に水ぶくれができています。カットバンをはっておきます。」
という。続くルワンウェリ・サーヤ大塔、トゥーパーラーマー・ダーガパでは、靴下を履いてストゥーパのまわりを歩いた。靴下を履けば、なんとか日射の中を歩けるが、それでも熱いことに変わりはなく、二人は体力を消耗していった。

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↑ルワンウェリ・サーヤ大塔 ↓ボーディガラ寺院跡沐浴地
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 ストゥーパはもういい、と思った。アヌーラダプラには、-というよりも文化三角地帯には-なぜかくもストゥーパが多いのか。それはシンハラ人とタミル人の抗争に多くの因を求めうる。紀元前500年ころ、シンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子がアヌーラダプラを統治し、紀元前380年にシンハラ王朝の首都となった。ところが紀元前後から、南インドのタミル人がなんどもスリランカに侵攻し、ときに首都を制圧することもあった。タミル人はヒンドゥー教徒であり、仏教を迫害して寺院を破壊したが、建物群のうち仏舎利を祭るストゥーパだけがいくたびも修復され今に残ってきたのである。
 近くのホテルで一休みし、ライム・ジュースを飲んで脱水症状を回復させた後、ボーディガラ寺院跡を訪れた。寺院の中心部からはずれていて、僧房や沐浴池が廃墟となって残っている。基壇や柱は上に存在した木造の屋根を失っているが、代わりに樹木に囲まれ、木陰があちこちにひろがっている。
  「涼しい」
なんとも気持ちよい風が吹いていて、そのそよ風をわたしたちはつかんでいる。

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↑↓ボーディガラ寺院跡 石柱の修復20060331215352.jpg

 なにより興味深かったのは石柱の繋ぎ方である。独立してたつ石柱をみると、ほとんどすべての柱材が2つの材をつないでいる。おそらく内側には雇いほぞのステンレス・ピンをいれているのだろうが、外側からは観察できない。接着剤はエポキシ系の樹脂ではなく、花崗岩系の砂をまぜたセメントであろうと思われた。問題は基礎だ。基礎をいったいどうしているのか。アンカーボルトを採用しているのだろうか。条件は池田家墓所の玉垣よりもずっと厳しい。しかし、繋がれた柱はちゃんと立っている。だれよりもピエールに見せたいと思った修復整備である。

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↑ミヒンタレーの参道 ↓同インビテーション・ロック
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 夕方、ミヒンタレーに移動した。ミヒンタレーはスリランカにおける仏教初伝の聖地。紀元前247年6月の満月の夜、ティッサ王はミヒンタレーに鹿狩りにやってきた。この山の神デーヴァは、そのころ仏教の布教を目的としてインドから来ていたアショカ王の息子マヒンダに王をあわせるため、鹿に化身して王を岩山の山頂に導いた。そこでマヒンダは座禅し瞑想に耽っていた。王はマヒンダと問答の結果、仏教に帰依し、臣下・住民もいっせいに仏教徒になったという。王とマヒンダが出会った岩山を、いまは「インビテーション・ロック」と呼んでいる。一方、スリー・マハー菩提樹は、釈迦が樹下で悟りを開いたブッダガヤの菩提樹の分け木をアショカ王女サンガミッタがスリランカに持ち込み、イスルムニヤ精舎の近くに植樹したものである。

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↑スリー・マハー菩提樹の下で座禅を組む(お尻に火が点いている)

 ネゴンボのビーチでみたシングル・アウトリッガーのカヌー。25年前、はじめて海外でフィールド・ワークをしたミクロネシアの島々を思い浮かべた。

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  1. 2006/03/24(金) 23:04:43|
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