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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

シーギリヤ・ロック -スリランカ仏教紀行Ⅲ

 旅程: ダンブラ→シーギリヤ→ポロンナルワ→ダンブラ(泊)

シーギリア・ロック(城砦)、パラクラーマ1世宮殿・沐浴池・議事堂、クワドラングル[トゥーパーラーマ集会室、アタダーゲ(第1仏歯寺/11世紀)、ミサンカ・ラタ・マンドゥーパ(経蔵)、ハタダーゲ(第2仏歯寺/12世紀)、ワタダーゲ(覆屋をもつストゥーパ)、ガルボタ石碑、サトゥハル・プラサーダ(スリランカ唯一のパゴダ)]、パバル・ヴィハーラ大塔、ランコトゥ・ヴィハーラ大塔、ランカティラカ、キリ・ヴィハーラ大塔、ガル・ビハーラ(石の寺);以上、すべてが世界文化遺産

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↑↓シーギリヤ・ロックの全景と参道20060331223412.jpg


 西暦477年、カーシャパ王子はアヌラーダープラを統治していた実父のダートセナ王を殺害した。厳密にいうと、王を憎む家臣に命じて、王を殺させたのである。カーシャパは長男であったが、母親は平民出身の側室であり、王族の血を引く母をもつ弟のモッガラーナに嫉妬していた。王位はモッガラーナに継承されるという風評がひろがり、腹違いの弟から王位を奪うために実父の王を拉致して殺害し、弟を追放したのであった。
 モッガラーナはインドに亡命したが、カーシャパはモッガラーナの復讐を怖れていた。カーシャパは狂ったように山城の建設に取り組んだ。それは、ただの山城ではなかった。天空を切り裂く岩山シーギリヤ・ロックに宮殿を築いたのである。父親殺しの7年後に宮殿は竣工したが、その4年後、モッガラーナはインドから軍勢を引き連れてカーシャパを攻め立てた。モッガラーナはカーシャパを挑発し、野戦を挑んだ。カーシャパはそんな挑発にのるべきではなく、シーギリヤ・ロックに籠城すべきだった。籠城すれば、あと何年かは生き延びることができたであろう。しかし、カーシャパは山を下りて陣を構えた。結果、カーシャパは戦に敗れて沼地で自決した。こうして王位はモッガラーナのもとに奪還され、首都はアヌラーダープラに戻された。父の殺害から自決まで、わずか11年の出来事である。

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 シーギリヤ・ロックは要塞化の以前から、仏僧修行の聖地であり、ありあまるほどの岩陰で、僧たちは座禅瞑想三昧の日々を送っていた。カーシャパを倒したモッガラーナは、シーギリヤ・ロックを再び仏僧修験の場として開放した。ただ、困ったことに、崖面には500体と言われるほどの美女のフレスコ画が描かれていた。スリランカ人だけでなく、アフリカやインドや中国の美女をふくんだ女官フレスコ画である。女官画はすべて削りとられるか、風雨のために消滅した。そう思われていた。ところが、1875年、崖面の窪みにフレスコ画が残されていることをイギリス人が発見した。これが有名な「シーギリヤ・レディ」である。

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 人生49年、さまざまな遺跡や建造物をこの目でみてきたが、衝撃の大きさから評価するならば、シーギリヤ・ロックはどの文化遺産をも凌駕する。「建築」という狭溢な芸術分野に限定するかぎり、アンコール・ワットのほうが優れた技術と意匠を表現しているかもしれない。しかし、垂直に切り立つ岩山を利用して城砦=宮殿を造り出した作意と、残された自然地形と遺跡と眺望景観の融合に訪れる者は絶句するしかない。そして、仏教修行の聖地が城砦に生まれ変わる由緒を知れば、だれもがなおさらシーギリヤ・ロックに取り憑かれてしまうであろう。ふと、司馬遼太郎が引用していた以下の禅語を思い出した。

  石上栽花後 生涯自是春
 (石の上に花を栽えて後、生涯自ずからこれ春)

 咲くはずもない花が石の上に咲いているとすれば、それは幻想以外の何物でもない。シーギリヤ・ロックの上に咲き乱れた宮殿建築。それは、わずか4年で虚空に消えた。

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↑↓山頂の宮殿遺跡は発掘中。
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 10世紀の終わり頃、南インドのチョーラ王朝がスリランカに侵攻し、アヌラーダープラを制圧したため、シンハラ王朝は首都をポロンナルワに遷した。歴代の王は仏教を篤く信望し、アヌラーダープラに勝るとも劣らない仏教都市としてポロンナルワは成長を遂げていく。しかし、ポロンナルワもまたチョーラ王朝の侵攻をうけて13世紀後半には廃都となった。今はどこもかしこも遺跡だらけ。「仏教都市」は「仏教遺跡都市」として生まれ変わり、世界中の旅客を集めている。

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↑パラクラーマ1世宮殿跡 ↓パバル・ヴィハーラ大塔
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 クワドラングルと呼ばれる一画がポロンナルワの宗教センターであり、ここでも石柱が直立して残る建物跡をたくさんみることができた。とくにハタダーゲ(第2仏歯寺/12世紀)前方の門跡では、基壇の内側に礫まじりのセメント状の裏込が露出しており、この奥底まで石柱を継ぎ足していて、表面を板石のペイブで化粧している状態を観察できた。その奥のほうにある経蔵は石の玉垣に囲まれていて、まさに池田家墓所のそれを彷彿とさせたが、隅の部分のみ鉄骨補強を施していた。ついでにいうと、ランカティラカでは、立像を囲む柱群が残っていて、そのうち1本だけをアナステローシスによって柱頭まで復元していた。断裂した柱材を平べったい鉄板で繋ぎ、繋ぎ目で金輪をまわしボルトで締めている。柱の繋ぎには鉄筋を雇いホゾとするのが通例だが、このように構造補強を外にみせる例も稀少ではあるが、確認できた。

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↑ハタダーゲ(第2仏歯寺)越しにサトゥハル・プラサーダ(パゴダ)をみる。
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↑↓ワタダーゲ(覆屋をもつストゥーパ跡)
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↑↓ワタターゲ前の門屋。石柱の基礎が理解できる。
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↑↓ミサンカ・ラタ・マンドゥーパ(経蔵)の玉垣。隅に構造補強。
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↑↓ランカティラカ仏堂跡
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↑↓1本だけ石柱を完全復元している。鉄板を用いた構造補強。20060331225528.jpg

  1. 2006/03/25(土) 23:15:54|
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