十数年ぶりに、今西錦司の『生物の世界』を開いてみた。もちろん初版本[1940]ではなく、全集第1巻[1974]所載の『生物の世界』である。何日か前に述べたように、今年から人間形成科目「鳥取学」のコーディネーターを仰せつかっており、今週水曜日にそのオリエンテーションが迫っていて、わたしの講義の副題は「環境と文化の地域学にむけて」としたものだから、少しだけ「環境」についておさらいしておこうと思ったのである。
そしてこのように広く解釈するならば、われわれの認識しうる世界が
われわれの環境であり、われわれの環境とはすなわちわれわれの
住むこの世界にほかならないと言えるのである。[今西1974:p.53]
『平凡社大百科事典』によれば、「一般に、生物や人間を取り巻く外囲(環界)のうち、主体の生存と行動に関係があると考えられる諸要素・諸条件の全体を環境という」。主体があれば必ず環境があるわけだが、主体が異なれば、物的条件がおなじであったとしても、環境は異なって認識される。おなじ青空の下で活動している人間にとっての環境と、蝉にとっての環境と、イモムシにとっての環境は異なっているのである。今西錦司が指摘するように、ある生物の認識しうる環境のみが、その生物にとっての環境であって、他の生物にとって、その環境は必ずしも認識の対象となっていない。これを人類に敷衍するならば、ある民族集団にとっての環境は必ずしも他の民族集団の環境と同一ではない、という言い方もできるであろう。
J. J. ユクスキュルの「主体的環境 Umwelt」と「環境基盤 Umgebung」、K. コフカの「行動環境(行動環境像)」と「地理的環境(実質的行動環境)」は、前者が主体によって認識される環境、後者が主体の外囲に実在する物的全体という差異を示すものである。前者と後者の違いは、人間の認識を媒介とするか否かであり、換言するならば、「環境」とは人間が外界自然に対してなんらかの介入行為をおこなった「文化」的所産であると言ってよい。すなわち、環境とは主体から切り離された「自然」そのものではなく、主体と環境の関係は「文化」を介して相互依存的なものである。
一方、これを「文化」の側からみると、「文化とは、その成員が認知し、関連づけ、解釈するためのもろもろのモデルである」[Goodenough 1957]。こういう認識人類学の立場にたつならば、文化とは「宇宙の分類の総体」であり、その民族集団が共有する「環境」認識の体系であると言えるであろう。
いろいろ小難しい御託をならべてきたが、言いたいことは単純きわまりない。
「文化」と「環境」は表裏一体の概念である。
こんにち「環境問題」が喧しく議論されるけれども、大概の場合、そこにいう「環境」とは二酸化炭素の増加に伴う地球温暖化であり、フロンガスによるオゾン層の破壊であり、工場廃液や農薬による水質汚濁などに限定されるきらいが否めない。しかし、「環境」という概念はきわめて「文化」的なものであり、「自然」科学的諸事象に限定されるものではないことに気づくべきである。人間の営みの基盤となる「環境」の認識 -あるいは自然観と言ってもよいか-はまさに「文化」の根本であるという前提を忘れてはならないだろう。
だから、「鳥取学」講義では「文化的諸事象(歴史・民俗など)に環境認識の仕組みが埋め込まれている」、あるいは「文化のなかにエコロジーが潜んでいる」という見方を重視し、自然科学の専門家だけでなく、考古学・歴史学・民俗学の陣容を充実させた。こういう観点をもって、鳥取という地域の「環境と文化」の全体像に接近したい、というのが、新しい「鳥取学」のねらいである。
- 2006/04/10(月) 23:11:06|
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