
昨日の3・4年ゼミ・ハイキングの帰り途、紙子谷集落で傾きはじめている大きな農業倉庫を発見した。中に入ってみると、肥料袋が3つ積み上げられている以外、ほとんど使用されている形跡がない。内部の傷みもたしかに進んでいるが、まずはその大空間に魅了され、中2階の存在にも驚かされた。その日の昼食に、またしても、農業倉庫を転用したそば切り『たかや」で蕎麦を食べたばかりだったから、おなじ農業倉庫でもあり、コンバージョンのことが頭にひらめいた。通常の農業倉庫に比べればはるかに大きく、
「1階は加工場と貯木場(古材バンク)、2階をアトリエにすれば最高だね」
などと話し合っていたのである。
その夜の出来事。
「あっ、これ大松博文の色紙ですね」
と指摘したのは、F印刷の西上さんであった。スリランカで会ったガミニさんの親友である。
大松博文(だいまつ ひろぶみ)と言えば、われわれの世代では誰でも知っているが、いまの学生にはまったく通じない。大松博文は東京オリンピック(1964)で、日本女子バレーチームを優勝させた監督である。1921年、香川県生まれ。ニチボー貝塚女子バレーボール部(現「東レ・アローズ」)の監督としてチームを日本一に導いた。その指導方針は、徹底したスパルタで厳しく、「鬼の大松」の異名をとった。「回転レシーブ」の発案者としても知られる。当時のニチボー貝塚は、そのまま日本代表女子チームであり、1962年の世界選手権で優勝、1964年の東京オリンピックでもソ連を下して世界チャンピオンとなり、その女子チームは「東洋の魔女」と畏怖された。
大松は戦後日本の英雄の一人であった。『プロジェクトX』そのもののような人物であった。のち自由民主党に誘われ、参議院議員となったが、1978年に57歳で他界している。


壊れかけた農業倉庫のなかで、チャックはなにかをさがしていた。チャックは、昨年のプロジェクト研究 「ダンボール大作戦」で大活躍し、カマドや蹲踞(つくばい)など「廃材でつくる茶室」の周縁施設を量産した注目の新人ゼミ生(3年)。茶室パンフの編集長も吉田からうけつぐことになっている。
わたしたちが紙子谷の農業倉庫に入って、倉庫の空間や洋小屋の技術に目を奪われているあいだ、チャックはまったく別の目線をもって、この倉庫を観察していたようだ。
「根性」
と筆で大書きした額縁入りの色紙を、かれは、その倉庫の地面の片隅で発見した。泥砂にまみれているから、「根性」の二文字以外はなにが書いてあるのか、よくわからない。しかし、さすが「ブリコラージュの達人」だけのことはある。
「これ、おもしろいですね」
と言って大学までもって帰り、さっさと水洗いして、4409演習室に仮展示してくれた。
それが大松博文の色紙だったのである。
- 2006/04/15(土) 23:08:46|
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