奈良国立博物館で開催されている「重源」展に足を運び、重源上人坐像(国宝、東大寺蔵)を目の当たりにした。魅入ってしまった。魅入られた、というべきか。
このような彫刻をこれまでみたことがない。正面から上人の顔をしばらく眺めていると、坐像が動き始めるかのような錯覚に襲われる。重源が口を開いて、何かを語りかけてくるような気がしてしまうのである。
重源上人坐像はほかに3体展示してあった。浄土寺(兵庫)、阿弥陀寺(山口)、新大仏寺(三重)の坐像も重要文化財に指定されているが、それらは重源木彫像の優品という評価にとどまるであろう。ひとり東大寺の坐像のみが人物と化して、われわれに「南無阿弥陀仏」と語りかけてくる。出来のよい人形には、-それが如何に可愛らしい人形であろうとも、霊魂が宿っているかのような恐ろしさがある、とよく言われる。東大寺の重源上人坐像の場合、そういう不気味さではなく、ほんとうに晩年の重源が境内のどこかで生活しているかのような幻覚を与える迫力と精緻さに驚かされる。仏師は不明。図録の解説者によれば、運慶説が有力であるという。
「大勧進 重源」展は、重源の御遠忌800年を記念し、「東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出」をテーマとしたものである。重源上人坐像や各種の仏像をはじめ、絵巻物、文献など陳列品のすばらしさにだれもが圧倒されるであろう。ただ一つ残念であったのは、「大仏様」建築に関する展示がほとんどなかったことである。
平重衡による南都焼き討ちによって焼亡した東大寺伽藍の復興を指揮する大勧進に抜擢された無名の僧が、「入宋三度」の経歴を活かして採用したのは、南宋福建方面の技術を取り入れた革新的な木造建築であった。遅れて導入される「禅宗様」が南宋江南五山の禅寺を直写しようとしたものであるのに対し、「大仏様」には模範となる仏寺が中国には存在しない。「大仏様」は重源と陳和卿による独創であって、その独創性ゆえに、重源の死後、「大仏様」は一気に衰退する、というのが現状の建築史学的理解である。
とはいうものの、重源と「大仏様」にはあまりにも謎が多い。謎が多く、日本建築史のなかで突出した位置を占めるからこそ、これまで太田博太郎、伊藤ていじ、関口欣哉、田中淡、藤井恵介らの俊英を虜にしてきたのである。こういった先達の研究成果を収斂させるためにも、宋元時代の南方中国建築、とりわけ福建省の寺院建築から「大仏様」を相対化するような試みが欲しかった。
欲張りなのかもしれないが、「重源御遠忌800年記念」という行事の性格からみて、「入宋三度」と「大仏様」の関係をさぐることは避けられない課題だと思うのである。

かつてなんどか福建省の古寺・古塔をみてまわった感想を述べると、明清時代の建築には大仏様と禅宗様の要素が混交しているのに対して、元、五代、南宋、北宋と溯るにしたがって、禅宗様の要素が薄れ、大仏様の要素(挿肘木、貫、皿斗付巻斗、円形断面の虹梁など)の比重が大きくなる。また、民衆建築としての風雨橋(屋根の架かった橋)や民家はおもに清から民国時代のものだが、大仏様と共通する要素をよく残している。おそらく、大仏様と共通する諸要素は、福建方面において、古い時代から近年まで持続的に継承されてきたのであろう。その古い要素を平安時代の末期に大仏様が吸収したことになるが、なぜ福建がターゲットとされたのであろうか。天台山や阿育王寺のある浙江ではなく、福建の影響が色濃いのはなぜなのか、疑問は尽きない。
- 2006/04/30(日) 22:34:52|
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