fc2ブログ

Lablog

鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

仁風閣を映す

 昨夜、松江から講演会にかけつけて下さった山村カメラマンは、当初、ホテルに宿泊を予定されていたが、我が家に泊まっていただくことにした。山村さんは、周防国阿弥陀寺近くの生まれで、重源に深く傾倒している。阿弥陀寺は重源が東大寺復興のため各地に造営した別所の一つ。重源上人坐像とともにミニチュアの鉄塔(鉄製の宝塔)でよく知られている。山村さんもわたしも、先の「大勧進 重源」展ではじめてこの鉄塔をみた。
  「大きかったですねぇ・・・」
というのが、両者に共通する感想であった。「盃彩亭」の前に腰掛けて、お酒を酌み交わしながらの会話である。
 山村さんは、わたしより20歳も年上の大先輩で、建築学科の卒業生ではないのだけれども、十数年前から、突然、重源に興味をいだき、その関心は古建築全般にひろがっていった。いまでは大型カメラを持ち歩き、全国の国宝・重文建造物を撮影し続けている。

 我が田園町の宿舎は、この春、卒業生たちの宿舎になっていた。卒業式の日は、謝恩会のあと、数名の学生がやってきて、WBC決勝の録画をみながら炬燵を囲んでごろ寝した。その後、わたしと某大学院生とのスリランカ出張のあいだも、わが家の鍵はピエールに預けていて、下宿を引き払った卒業生が28日ころまで寝泊まりしていたらしい。家は2階建てで畳部屋は4室あるけれども、2階はアトリエと化していて、客人が眠るほどのスペースはないから、宿泊者は1階の炬燵で寝ることになっている。
 山村さんは20歳も年上の大先輩であるのだけれども、我が家におけるこの掟に従っていただいた。炬燵を少しずらして、座布団を3枚敷き、上に厚めのシーツを被せて敷布団とし、あとは掛布団にくるまり、枕に頭をのせる。まったくひどい扱いだとお思いでしょうが、単身赴任のチョンガー生活とはこういうものでございます。

20060528040556.jpg


 今朝は9時から二人で仁風閣に出かけた。仁風閣は明治40年、鳥取藩主の末裔にあたる池田仲博侯爵が宮内省匠頭であった片山東熊に設計を依頼して建築した迎賓館である。竣工まもなく、皇太子(後の大正天皇)の山陰地方行幸の御在所として使われた。片山東熊は赤坂離宮や京都国立博物館の設計で知られた当代随一の宮廷建築家で、現代で言えば、丹下健三のような人物である。仁風閣はフレンチ・ルネッサンス様式を基調とし、バロック風の軒飾りをもつ白亜の木造擬洋風建築。鳥取出身で片山の後輩にあたる橋本平蔵が現場監理にあたった。
 子どものころ、仁風閣は科学博物館に転用されていた。社会見学で訪問した際、大きなオオサンショウウオが水槽展示されていたことだけをよく覚えている。建物は、古ぼけてみすぼらしく、小学生の目に映った。それが、昭和48年に重要文化財の指定を受け、翌年から3年かけて解体修理をおこない、昭和51年から新装した姿を公開している。記憶を辿れば、公開の年にわたしは成人している。これはワイフと知り合った年でもあって、とすれば、デートコースとしてたまに利用していた仁風閣は修復直後の状態だったことになる。

20060528034754.jpg

 山村カメラマンは、仁風閣で撮影に没頭していた。わたしはゆったりとした時間をすごした。2階の謁見所にある椅子に腰掛け、しばし窓外にうつる宝隆院庭園を眺めていたのである。この庭園は、十二代藩主慶徳が夭逝した先代藩主慶栄の未亡人を慰めるために造営したものという。庭があるからには、もちろん宝隆院の屋敷もあったはずだが、その屋敷の跡地に仁風閣が建設されたことになる。
 しばらして、庭に足を運び、池のまわりを彷徨っていると、築山の上で一人のご老人がスケッチをしていた。
  「ひょっとして、浅川先生じゃありませんか・・・?」
 その方は鳥取市の文化財保護審議委員会で年に2度ばかり顔をあわせる美術担当の老大家であった。どういうわけか、わたしの母のことをよく知っている。即座に築山に上って挨拶し、厚かましいとは思いながら、スケッチブックをみせていただいた。やはり、絶好の場所で絵を描いていらっしゃる。庭と仁風閣と城跡が一つの画面に納まる見事なアングル。上の写真はそこから撮影したものである。その中に山村カメラマンが映っているが、山村さんはおそらく建物単体に照準をあわせているのであろう。わたしたち二人は、仁風閣の背面を主役とする久松山の風景を切り取っていた。
 老大家は言う。
  「季節が少し遅くなって、緑が多くなりすぎました。建物の全体がみえなくてね。冬に来て、もっとスケッチしておくんでした。」
  「そんな、冬にここでスケッチされてたら、身体がもたないしょ?」
  「いや、冬がいいんですよ、冬の仁風閣はすごいんです。辛いったって、大山に比べたらずっと楽ですからね・・・」
 というわけで、下に冬の仁風閣を掲載することにした。仁風閣内部の展示パネルを映してトリミングしたものである。

20060528034805.jpg


 仁風閣に隣接する鳥取西高の体育館とグラウンド。ブラバンの練習音がずっと聞こえていた。母校の響きである。城跡整備のために西高を動かす必要はない、とわたしは思っている。べつに卒業生だから、そう思うのではない。仁風閣がよい参照例になるのではないか。城跡とは無関係な迎賓館として建設された仁風閣は、いまは城跡の風景になくてはならない点景となっていて、久松山一帯の景観を引き締めている。西高の校舎にしても、現状の建物はまずいけれども、質の高いデザインに改修・修景すれば、城跡の景観の質を向上させるよき媒体となるだろう。そのほうが、二の丸や三の丸の無謀な復元よりも重要な仕事ではないだろうか。

20060528034814.jpg


  1. 2006/05/27(土) 23:56:43|
  2. 建築|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
<<回想「廃材でつくる茶室」2004-2005(Ⅲ) | ホーム | 縄文の森の手羽先>>

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://asalab.blog11.fc2.com/tb.php/434-265b90b3

本家魯班13世

09 | 2023/10 | 11
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Archives

Category

Links

Search