名古屋市立大学の溝口正人助教授から、『愛知県史 別編 文化財1(建造物・史跡)』(2006年3月、807頁)と『小寺武久先生追悼文集』(2006年7月、99頁)が贈られてきた。
小寺武久先生(名古屋大学名誉教授)は、本年2月19日に東京で逝去された。いまe-mailの受信記録を検索してみたところ、2月21日に弔電を打っている。どんな弔文を書いたのか、よく覚えていないけれども、たしか、
「しばらくお待ちください、あの世でまた一杯やりましょうね・・・」
というような内容だったと記憶する。
さきほどから『小寺武久先生追悼文集』を流し読みさせていただいている。50歳を前にして、老けてしまったからだろう、どうにもこうにも涙腺が弱くなってしまった。
小寺先生が仏陀のように思われてならないのだ。
晩年、インドのいったい何に小寺先生は憑かれていらっしゃったのだろうか。ひょっとしたら『般若心経』の世界を求めて彷徨っていらっしゃったのかもしれない(わたしの勝手な妄想である)。
小寺先生との付き合いが深いわけでは決してない。建築学会の東洋建築史小委員会で『東洋建築史図集』の編纂をご一緒させていただいたのが面識を得るきっかけであった。大学院の博士課程を終えて奈文研に入所した頃である。当時、編纂に携わる委員は図集用原稿の執筆に追われていた。みんな苦しみ抜いて膨大な原稿を仕上げていた。ところが、その原稿をまとめるはずの委員長が「病気」を理由に脱走してしまい、突如として委員会にあらわれなくなってしまった。以来、図集は10年近く未刊行のままとなり、出版社は「訴訟も辞さない」旨、学会に通知してきていた。その尻ぬぐいをされたのが小寺先生であった。気が付いたら、小寺先生が委員長代理になっていて、編集作業に携わり、委員長が放り出した原稿のすべてを肩代わりで執筆されていたのである。
委員会が招集されると、老若に拘わらず、脱走した委員長に対する批判を口にしたものだが、小寺先生は顔色ひとつ変えず、いつものにこやかな笑顔で寡黙を貫いておられた。
「わたしがやりますよ」
そんな科白はひと言も発せられないのだけれど、御顔がそう語っている。どうひっくりかえっても、わたしには真似ができない。
その後、奈文研の遺構調査室長を務めていた時代、当時の田中所長から建造物の指導委員を2名推薦するよう指示され、小寺先生に2名の指導委員のうちの1名になっていただいた。すでにお体は病んでいたようで、懇親会の席でも、大好きなお酒に口をつけられることもなくなっていた。余計なお仕事を押しつけてしまい、後悔している。
『愛知県史 別編 文化財1(建造物・史跡)』は、小寺先生が県史文化財部長として編纂された大著である。一県の建造物と史跡に対してA4版800頁もの分量を割いた県史を、わたしはこれまでみたことがない。いま県庁で進められている新版鳥取県史の関係者に、是非ともご一読いただきたい大作である。わたし自身も、小寺先生の遺作として大切に読み深めるべく努力したい。そして、この大作と追悼文集をご恵贈くださった溝口正人さんに心から感謝の気持ちをあらわしたい。
- 2006/07/24(月) 23:47:36|
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