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鳥取環境大学 環境情報学部 建築・環境デザイン学科 浅川研究室の記録です。

一休寺虎丘庵年輪年代報道に対する異議

 この記事は、盆休みに書こうと思っていた。というか、書いていいものかどうか迷っていて、何度も奈文研埋蔵文化財センターの古環境研究室と連絡を取り合っていた。奈文研のスタンスはいつも禁欲的で、今回もまた公表に慎重な姿勢をとっている。年輪年代データの数が3点と少なく、しかもその3材はいずれも辺材(シラタ)を残していない。心材(アカミ)だけの木材の年輪を調べても、その伐採年代を知る手がかりにならないことは、考古学・歴史学の専門家ならだれだって知っていよう。

 ことの発端は一休さんである。一休さんは応永元年(1394)、後小松天皇の皇子として正月元旦に生まれたという。6歳にして、早くも京都安国寺に出家得度した。トンチの一休さんは、この安国寺小僧時代の寓話である。実際に「一休」の号を授けられたのは応永25年(1418)のこと、千菊丸と呼ばれた皇子は25歳になっていた。
 戦乱の世であった。40代半ばから、一休宗純禅師は京の各所に庵を営んだが、しばしば居所を変えている。康正2年(1456)、とうとう京の町を逃れ、京田辺市薪にある酬恩庵に移られた。以後、晩年の四半世紀を酬恩庵に寓している。問題は、応仁の乱(1467~77)前後に、京の東山から移築されたという書院「虎丘庵」である。慈照寺(銀閣寺)東求堂を彷彿とさせる趣味のよい小振りの書院だ。
 岡村が働く「数寄屋研究所 心傳庵」の木下孝一棟梁は、一休寺(酬恩庵)のホームアーキテクトと呼ぶべき存在で、虎丘庵に人一倍の愛着を抱いておられる。岡村が大学4年次に一ヶ月修行させていただいた際、わたしは心傳庵に木下棟梁を訪ねた。2004年7月24日のことである。そのとき2時間以上お話しさせていただいたのだが、大半の話題は虎丘庵の年代に終始した。棟梁は、府教委や文化庁の技師、あるいは建築史学者の眼は節穴だと言われた。江戸時代中~後期の作とされる虎丘庵を、一休禅師ご存命時の建築だと信じて疑っていない。
 もちろん、わたしに意見を求められたのだが、江戸時代に大改修があったかもしれないけれども、移築当初の部材や様式を一部に残す可能性なきにしもあらず、という曖昧な返答しかできなかった。その後、何度お目にかかっても、同じお話をされるので、わたしは遂に奈文研の古環境研究室に連絡をとった。
 そして、2006年3月23日。古環境研究室による年輪測定調査がおこなわれた。わたしは、この日スリランカに旅立ったので、調査には参加できなかったが、1100万画素のデジタル一眼レフカメラで、床柱、仏間の脇柱、南桁、東桁の4点(いずれもヒノキ材)を撮影したという。去る8月4日、古環境研究室は一休寺を訪れ、木下棟梁に調査成果を説明した。わたしも同席するはずだったのだが、3年生のガイダンスがあり、またしても参加できなかった。わたしが加わっていれば、こんなことにはならなかったと悔やんでいる。
 さて、年輪年代測定の結果は以下のとおり。年代は最外層年輪年代を示す。
  1)床柱(1472年/心材) 2)仏間の脇柱(1552年/心材)
  3)南桁(1482年/心材) 4)東桁(不明)
 このように、標準変動グラフとの対照によって得られた最外層年輪年代は、いずれも心材(アカミ)の部分であり、辺材(シラタ)はまったく残っていない。こういう場合、常識的には、最もあたらしい仏間脇柱の年代、すなわち1552年以降に虎丘庵が建設されたという解釈が成り立つ。したがって、現在の虎丘庵は一休禅師逝去後の建物である可能性が高いことになる。ただし、移築当初の建物を部分的に残しながら、1552年以降に改修をおこなった可能性も否定できない。要するに、上の3点の年輪データだけでは、虎丘庵の建築年代について結論めいた発言はできないのである。
 だから、奈文研は慎重な姿勢を崩さなかった。今後1~2年をかけて、さらに多くの部材の年輪を測定し、もう少しデータが集成された段階で、データを公開する予定であった。ところが、8月7日に情勢が一変する。古環境研究室からのメールの一部を引用しておこう。
  「ついさきほど、京都新聞の記者から早速取材の電話がかかってまいりまして、どうも(略)年輪年代測定の話が新聞記者に流れてしまったようです。こうなってしまった以上は、三点の年代値が新聞を通して流れ出すのももう時間の問題かと思います。」
 だから、年輪年代の問題が記事になる前に、わたし(=浅川)がブログにデータを掲載し、コメントを書いてくれたほうがありがたい、という要請がそのメールに追記してあった。思わず眼を疑ったが、8日は倉吉で調査もあり、すぐには原稿にできないけれど、どうしたものか、と思案しつつ帰学したところ、はたして「虎丘庵のことが、今朝の京都新聞に掲載されました」という新しいメールが入っていた。
 「当方からは、記者発表や情報リークはしておりませんし、問い合わせに対するコメントも一切、出しておりません。(略)本来ならば、年輪年代調査の結果の公表については、今回の年輪年代調査の発起者である浅川さんや実際に調査に当たった我々、さらには一休寺さんや木下棟梁など関係者全員の意に沿うような形で、しかるべき手続を踏まえて・・・と、思っておりました。」

 京都新聞の記事は、下記のwebsiteで閲覧できる。

  http://www.kyoto-np.co.jp/index_kan.php      
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006080800046&genre=J1&area=K20

 その記事には、「木下さんの調査に伴い、奈良文化財研究所埋蔵文化財センター年代学研究室が今年、一部のヒノキ材の年輪年代測定を行った結果、床柱は1472年、仏間の脇柱は1552年と分かった」とある。あきらかに年輪年代学を悪用した所見である。心材の最外層年代を伐採年代とする初歩的な認識のミスだが、これでは、今回の調査によって虎丘庵の建築年代が一休禅師の時代に遡ることがあきらかになったことになってしまうではないか。
 わたしは木下棟梁と奈文研古環境研究室のあいだに入って、この仕事を推進する役割を務めてきた。古環境研究室は一休寺の建築全体に視野をひろげた年輪測定をおこないたいという希望をもっていて、それが虎丘庵の年代解明にも貢献することはあきらかだから、今後の展開を楽しみにしていたのだが、いきなり勇み足の報道がなされ、正直、呆然としている。
 なにより古環境研究室の皆様に大変なご迷惑をおかけしたことを、衷心よりお詫び申し上げます。



  1. 2006/08/08(火) 23:59:05|
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