
だから調査はやめられない。くだらない会議や委員会に引っ張りまわされている自分が馬鹿にみえてくる。
今日は、看板建築にやられてしまった。
6月に倉吉打吹アーケード商店街の調査が始まったとき、看板建築のあまりの多さに驚かされた。このアーケードを取っ払ってしまうと、とんでもない数の看板建築が露天にさらされ、町並みは崩壊すると思った。
アーケードをとるべきではない。そう感じていたのは、おびただしい看板建築がアーケードと軌を一にして普及し、発展してきた建築物だったからである。

わたしは誤解していた。
看板建築とは、町家の軒を削り取って、コンクリート建築風のファサード、すなわち「看板」を創りあげたものだと思っていたのである。ところが、裏側にまわって、調べてみると、町家の軒はちゃんと残っている。建具だって昔の姿をとどめている。「看板」は軒に接して、その外側につくられた箱物であって、決して軒を削りとっていない。
これなら、町家のファサードを簡単に復原できる。箱物を取り除くだけで、少なくとも2階は当初の構造と意匠が姿をあらわすのだから。1階だけを修景すればいい。2階については、修景も復原も必要ない。たいした費用はかからないし、修景マニュアル等によって古めかしい意匠をでっちあげる必要もない。下手な改造型町家より、看板建築のほうが、ずっと扱いやすいではないか。
アーケード街の古い町並みは、仮面の裏側にただ隠されているにすぎないことを知った。
アーケードの撤去を恐れる必要はない。その気になりさえすれば、隣接する重要伝統的建造物保存地区と同レベルの町並みに短時間で恢復可能だ。厚化粧を落として、堂々と露天の下に、素顔の美しさをさらせばよい。

今日は、高校野球決勝戦の再試合があった。2軒めにおとずれた陶器屋さんは、気軽に調査に応じてくださった。が、ご主人はテレビにかじりついている。いつもインタビュー(調書取り)から始めるわたしは、それを諦め、F4とデジカメの写真撮影を優先させた。しかし、試合はそう簡単には終わらなかった。じつは、わたしも決勝がみたくて仕方なかったので、ご主人の背面に控えて、8回表から一緒にテレビをみさせていただくことにした。ご主人は苫小牧を応援していた。食堂の壁には大きなポスターが貼ってあった。奥様によれば、阪神と都はるみの熱狂的なファンなのだそうで、それとこれとは関係ないはずだが、とにかくご主人は苫小牧を応援していた。スコアは1-4で、苫小牧の劣勢は否めなかった。
「あの、落ちるボールに手をだすだけぇなぁ。振らんかったらええのに、ほら、また振ってしまった。あれを振らんかったら、勝てるのに・・・」
たしかに今日も、
斉藤の縦におちるスライダーの切れ味は鋭かった。9回裏になって、ご主人は、
「どうせ、3者凡退じゃ・・・」
と呆れた口調で諦観していたが、本心は違ったはずだ。
すると、ノーアウトからツーランホームランがセンター・バックスクリーンに飛び込んだ。
4-3 点差は1点に縮まった。しかも、ノーアウトである。早実も青森山田のように、逆転される可能性は十分あった。
しかし、斉藤はふんばった。並のピッチャーではない。それから一人のランナーも許さなかった。最後のバッターは、苫小牧のエース田中。
斉藤は、田中のことを「田中」と呼び捨てにするそうだ。親近感をもっている証拠である。親近感をもった最高のライバルを仕留めて、斉藤と早実は日本一に輝いた。
ご主人は呆然としていた。
すぐにインタビューを始めるのはよくない、と判断し、わたしは再び2階にあがって、看板に隠された町家の軒と建具を細かく写真にとった。大正15年の高2階町家の2階は、数寄屋の匂いで満たされている。

しばらくして、テレビの部屋に戻り、ゆっくりお話をうかがった。
午前中に調査したカバン屋さんと同じく、老夫婦お二人の生活で、後を継ぐ者はいないという。どこもかしこも似たような状況に追い込まれている。後継者がいないということは、建物が存続の危機に直面しているということである。
看板建築は仮面に隠された宝の山であり、その保存対策を早急に講ずる必要があることを痛感した一日だった。
- 2006/08/21(月) 23:59:27|
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