
午後3時の休憩でいただいたスイカに9人がむしゃぶりついた。大きなスイカだから、とても一人や二人でたいらげられるものではない。
一人住まいのわたしなど、スイカを買う気にすらならないが、こういう大勢の調査では、とんでもない威力を発揮する。汗をかいたあとのスイカは、こんなに美味いものなんだ。大人数で食べるから、さらに美味しく感じるのかもしれない。あまりの美味しさに、女子学生が6名も居ることを忘れ、思わず、
「スイカップだ、うっしっし・・・」
と小声でつぶやく阿呆な教師が一名いた。
今日もまた9名の調査員がいて、女子がさらに1名増えていたのだが、一人あたり2切れは食べる。もちろんホカノも副部長もわたしも3切れたいらげるから、またたくまにお盆にのせられたスイカは皮だけとなって、ゴミ袋に消えてしまった。


このスイカはオモヤの土間におかれた「はんど」で冷やしたものだ。近隣の湧水を樋で屋内に引き込んで貯水する水槽のことを「はんど」という。じつは前庭の板蔵の前にも「はんど」がある。3名の男たちは、庭でスイカにむしゃぶりついては、種を口から飛ばし、スイカ汁のついた手を「はんど」の水で洗った。
水は生命の象徴である。ご存知のように、出雲国風土記にはおびただしい数の神々が登場するけれども、その70%が湧水、井戸、滝など「水」と関わる由緒をもつ。水道のない時代、尾崎家においても、「はんど」に流れ込む湧水こそが一家の生命線であったに違いない。
今日の尾崎家の調査で、最も大きな収穫を感じたのは「薪小屋」である。長屋門に近接して、通りに面して建っている平屋建瓦葺きの長細い小屋。1間半おきに柱を立て、半間おきに梁を架ける。この構造形式が長屋門の1階部分とよく似ている。長屋門は2階建になっているが、半間おきに架かる曲がった梁を1階天井部分にみたとき、当初は平屋で茅葺きだった可能性があると感じた。今日、「薪小屋」を観察して、長屋門がかつて平屋であったのは間違いないと確信したが、「薪小屋」は西側に隣接する「味噌蔵」と同時期の竣工とみるべきであり、当初から瓦葺きであったと考えられる。だとすれば、長屋門も平屋建の瓦葺きであったのだろうか。オモヤの茅葺きが目立つだけに、平屋の門を瓦葺きにしたのかどうかが非常に気になっている。

↑薪小屋の外観 ↓長屋門1階の架構

もうひとつの収穫は「家伝書」。写真の袋に記してあるように、尾崎家には3篇の家伝書と1篇の家訓書が残っていて、今日は「當尾崎遺命家傳実録」を撮影させていただいた。他の2篇は「當尾崎遺命家傳実録」のための草稿であるというが、元禄ごろの5代目の時期には土蔵が数棟建っていることが記載されているらしい。たしかに、この住宅を調べていると、元禄あたりの匂いがぷんぷんたちこめている。
河本家住宅(琴浦町)とは違って、1枚の棟札も残っていないので、どうしても調書には、新しめの推定年代を記入してしまう。しかし、よくよく考えてみれば、河本家の場合でも、棟札を降ろす以前に想定した年代よりも古い年代が必ず記してあった。棟札を残していないだけに、「當尾崎遺命家傳実録」およびその草稿2篇の分析は、今後の研究に大きな意味をもつことだろう。
- 2006/08/22(火) 21:42:03|
- 建築|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0