
河原町の
樋口神社に続き、今日は湯梨浜町の安楽寺を訪問した。なぜ安楽寺なのかというと、尾崎家の対面にあるお寺だからである。というか、安楽寺は尾崎家の菩提寺であって、尾崎家抜きには語れない浄土真宗の寺院である。建立は文化年間。

今日は、某カップルが尾崎家対面にあたる安楽寺山門周辺の連続立面を実測した。わたしは写真を撮影しながら、お寺の建築をじっくり観察した。山門は和様を基調としながらも、台輪上に和様三斗の詰組をのせ、組物の大斗に皿斗をつけるなど、禅宗様および大仏様の要素を織りまぜた折衷様の建物である(近世社寺建築は大半が折衷様なんだが)。後方斜めに控える鐘楼は台輪とともに、全面扇垂木を採用しており、さらに禅宗様の色彩が強くなる。一方、本堂の軒をみると、桟瓦葺きの下地が二重軒付のトチ葺きになっていた。
そういえば、トチ葺き下地の瓦葺きも少なくない。トチ葺きだけでも雨が漏らないのに、その上に瓦を葺くのだから、万全だ。経費の都合上、一気に瓦が葺けない場合、背面だけトチ葺きを残しておいた例も報告されている。


今日は、カメラマンに徹した。最初に欄間の撮影をした。大工彫りで知られるオモヤのナカノマ・オモテ境の欄間と仏間の彩色彫刻欄間をF4とデジカメで撮影した。まずは、スケールなし、次にスケールをあてて撮影した。仏間彩色彫刻欄間は、みるからに古めかしく、ご主人によれば桃山時代の作という。
堅田門徒の活動した時代である。さらに仏前に吊された「下げ灯籠」も彫刻欄間と同時期の作であるとのこと。六角形の笠に蕨手をつけるその姿は、三仏寺本堂の
御輿を彷彿とさせた。いずれも高御座(たかみくら)系列の意匠である。オモヤの大工彫り欄間と仏間の彫刻欄間は立体的であり、拓本(乾拓)には適さないから、業者に頼んで写真測量してもらおうと思っている。

安楽寺山門周辺の連続立面撮影を経て、午後からいよいよ屋根裏にのぼり、サス組と小屋組を撮影した。まず土間上の梁組の上にのぼった。恐ろしくて、足が震えた。
「許してください、もう2度とホカノをいじめません・・・」
と懇願したのは昨秋の
三角山登山以来のことである。だって、あんなに高い梁の上から、硬い堅い土間に落ちたら死んでしまうか、半身不随になるかのどちらかなんだもの。それに、煤が粉雪のように梁の上に溜まっている。ひょっとしたら、江戸時代初期以来の煤の堆積かもしれない。煤に触り、煤を跨ぎ、煤に腰掛け、写真を撮った。おかげで、衣服は真っ黒になった。スウォッチの腕時計も、緑色の数珠も、チェンマイの山間寺院で手首に巻いてもらった
聖糸サイシンもすべてが真っ黒になり、高野山で買った黒檀の数珠はさらに黒味が益して闇夜の烏のようになった。

なんとか死力を尽くして撮影を終え、地面に降りてきた。
ハンドの水で服や肌や調査具を洗い、ホカノがもってきた作業着に着替えて、3時のおやつをいただいていたところ、調査隊長の「北から来たの」さんから容赦ない指令を頂戴した。
「センセー、今度はイロリ間の上にもあがって撮影してください」
生まれてくるんじゃなかった。
こんな人生を送るはずではなかった。
フラッシュ付きの重たいF4を首から垂らし、手にデジカメをもって、わたしは屋根裏に帰っていった。今度は天井の裏側だから危険ではないが、やはり煤の被害にあった。着替えた作業着は、また黒く汚れてしまった。帰途、コンビニに寄って、「Tシャツはありませんか」と問うたところ、「下着ならあります」との回答で、結局、作業着のまま「
うどんの千代志」で夕食をとり、ミーティングをした。
便所の鏡に映る自分の姿をみて、汚い、と思った。
- 2006/08/26(土) 23:42:37|
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