
まるまる半日かけて、御所野遺跡にやってきた。ストーンサークル外周域の掘立柱建物2棟の着工が間近に迫っており、最終の調整をするためである。今回、一戸町は復元設計から施工に至る工程をすべて町自前でおこなうことにしており、設計業者にも施工業者にも仕事を発注していない。設計は町の建築担当技師、施工はある1名の大工さんが担当する。
今日は基礎、地盤面、排水、ケツンニ(アイヌ型三脚)構造、栗樹皮葺き屋根、芝棟の細部について話を詰めた。おそらくこれで問題はないであろう。数年前に建てた3棟よりも質は高くなるはずである。
午前中は長時間電車に揺られた影響で、列車をおりても、宇宙遊泳しているような感覚がとまらなかった。要するに、体調が芳しくなく、梅干やキムチのような、体を引き締める食べ物が欲しくなった。だから、いつもの蕎麦屋ではなく、懐かしい大衆食堂のホルモン鍋定食を所望した。平成8年、御所野西区で多数の焼失住居跡(縄文中期末)が発見され、研究所のブッラクベア(現文化庁)とともに調査に来ていたころ、しょっちゅう通った大衆食堂の味で、この店のラーメンも上手いが、ホルモン鍋は疲れた体力を補ってくれる。生姜とニンニクが効いた甘辛のタレに食欲が反応するのである。今日も、これを食べて、体力は回復し、午後の現地指導では元気を取り戻した。

↑掘立柱建物の樹皮(栗)葺き屋根[現状] ↓新たに準備した葺き材と蔓

御所野には「おみなえし」が咲き乱れていた。遠目からは菜の花のようにみえるが、近くにみると、その花びらはさらに繊細である。山野に自生する多年草で、夏から秋にかけて
黄色の小花を傘状につける。万葉集に「秋の七草」の一つと詠まれる。
おみなえしは、平安時代の半ばころから漢字で「女郎花」と表記するようになった。べつに「遊女」や「花魁」に見立てているわけではなく、女を「おみな」、男を「おとこ」と呼んで、それぞれ「女郎」「男郎」の漢語をあてただけのことである。要するに、現代語の「おんな」は「おみな」の転訛というわけだ。そして、「おみなえし」とは「女飯(おんなめし)」のことで、粒々の花を粟飯(あわめし)に見立てたとする説が有力とされる。遺跡の片隅には、白い花をつけた「男郎花(おとこえし)」も咲いていた。オミナエシ科の白い花で、形はおみなえしにそっくり。白い飯は「男飯」だというわけか。

それから、駒木家の土蔵を訪問した。
東北や北海道を訪れると、瓦屋根の住宅が少ないことに驚かされる。民家は葦葺きだが、一般的な建物には鉄板葺きが圧倒的に多い。これは、こけら葺きが現代的に変化した姿である。それが証拠に鉄板をめくると、一面にこけら葺きの屋根面が残っている。
駒木家の土蔵は、二戸前の超大型であったが、すでにこけらを覆う鉄板葺きの鞘屋根ががたがたに崩壊し、雨水が土壁を削り、内側の小舞を露出させていた。しかし、内部の木構造部分に損傷はなく、その木柄の太さに目をみはった。ケヤキの棟持柱が2階にまで立ち上がっている。1辺が尺2寸はあろうかという面取りの角柱で、この柱に1階では大引が差し込まれ、2階では棟木がのる。この大引と棟木の成(丈)は尺5寸はあるだろうか。松の太径木である。こういうシンプルで力強い構造をもつ大型の土蔵は、西日本ではあまりお目にかからない。かつて、秋田県の近代化遺産調査でみたいくつかの藩蔵・酒蔵の構造とよく似ていた。


平面的にみると、蔵の背面や側面に米を納める板倉(横板落込み式)を何室ももつところが特殊である。幕末から造酒屋をやっていた家柄であり、雲形の装飾などからみるに、明治初期ころの建築かと思われた。近隣に残る親類宅の土蔵も拝見させていただいたが、やや小降りながら、ほぼ同様の平面と構造形式をもっていて、こちらの蔵は明治30年代の棟札を残す。
撤去間近というので、急遽拝見させていただいたのだが、鞘屋根と壁以外は十分再利用可能。とくに棟持柱と大引・棟木はいくらでも引き取り手はあるだろう。太い垂木や屋根板・壁板だって十分使える。曳き家して、仙台にでも持っていけば、小粋なライブハウスに生まれ変わるだろう。
鳥取までもって帰れないのが残念であった。



↓リコーのカレンダー2006(東尾理子)。やや小降りな明治30年代の土蔵1階に吊してあった。
- 2006/08/28(月) 23:05:25|
- 史跡|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0