
今日もまた猛烈にはたらいた。
まず9時、フエ大学のグェン講師(息子さんの方)が英語教師のMs.タンを連れてきた。昨日、家船屋内の調査とインタビューは終えてしまっていたので、今日はおもに集落の配置に関する外まわりの調査をすると決めていたから、正直言って通訳は必要ないので、その旨お知らせし、夕方来られるグェン教授(お父様の方)との通訳をお願いすることにした。
その後、ただちに
ドンバー橋をめざした。もちろん今日もシクロに乗って、かれらの居住地に連れていってもらったのである。今日は、昨日実測したグェンさん(運転手)の家船を含むVan do(家船集住ブロック)の全体性を把握するため、西端から東端までの距離を巻尺およびGPSでおさえながら、そこに並ぶ家船・筏住居をスケッチし、わかる範囲で船の番号を確認した。船・筏住居が護岸に並ぶ距離は約380m、船・筏住居の総数は98艘であった。このブロックの西端地点から約20m離れて次のVan do(家船集住ブロック)が始まり、その全長も略測しようと試みたのだが、途中である住人から「2km続いているよ」と言われて、やる気を失った。実際は数百メートルと思われるが、その先の対岸には同様のVan do(家船集住ブロック)がさらに続いている。
↑30メートルテープを引っ張るチャックに人気集中。子どもたちは楽しくお手伝いしていた。↓Van do(家船集住ブロック)の西端に樹影をひろげるガジュマルの大木。木陰には必ず露店が陣取り、樹幹には小さな祠を祭る。
家船には「PH-020」などの記号を記した金属板が舳先の板に貼り付けてある。このPHは地名の略号であることをグェン教授(お父様の方)から教えられた。PHはPhu Hiepの略で、今回調査した家船・筏住居の95%以上を占めたが、なかにはPB(Phu Binh)やVD(Vy Da)も含まれていた。外来者の船と思われる。興味深いことに、筏住居の場合、この船番号を表示しないものが圧倒的に多い。おそらく、船を放棄し、あるいは船を改造して筏住居を建設した段階で、船番号を取っ払ってしまうのであろう。
昼食をどうしようかと悩んでいたところ、朝の辛い湯麺のせいか、お腹が痛くなり、トイレを探した。しかし、近くにはホテルもレストランも公衆便所もない。仕方ないから、船に住むご婦人に身振りで便意を示したところ、ある筏住居を紹介してくださった。その筏住居の一番奥の水際に水洗便所が設けてあった。もちろん、水洗とは川の流れのことである。厠(かわや)の語源は「川屋」であるから、今日のわたしは本家本元の厠で用を足したことになる。エチケットを追記しておくと、排便後、桶で川の水を汲み便器を洗い流さなければならない。
↑シクロと筏住居の群れ。↓筏住居の川屋。
グェン教授(お父様の方)によると、ベトナム政府はこういう汚染を懸念して、船住まいの人びとを陸地に住まわせたいという意向をもっているのだが、アパートを建設する経済力もない、という矛盾を抱えているのだという。川に便や汚水を流すのは、もちろん「汚染」の一種ではあるけれども、都市の開発行為が環境を悪化させる可能性だって十分あるわけで、高層アパートが家船に優るとは必ずしも言えないだろう。
午後1時半まで炎天下の調査を続け、ほとんど脱水症状に陥った。ドンバーから紫禁城(グェン朝王宮)まで歩いて行こうと決めていたのだが、もうエネルギーは残っておらず、再びシクロを利用することにした。今日のドライバーはロンさん。やはりドンバー橋の近くで船に住んでいる。ロンさんに
「王宮の近くで、美味しいレストランがあれば紹介してください。」
と訊いてみた。かれは「ガーデン・レストランがいいですよ」と言って、わたしたちを瀟洒な庭のあるレストランに連れていった。
それは「Tinh Gia Vien」というレストランであった。今後、フエを訪れるかもしれない読者は、この名前を覚えておいたほうがいい。宮廷料理で知られる有数のレストランで、たしかに風雅な味覚に我を忘れてしまった。セットは一人10ドル、12ドル、15ドルとあって、わたしたちはいちばん安い10ドルの料理を注文した。歴史のある古都の宮廷料理は、どこで食べても淡麗な味がする。複雑な味なのだが、あっさりしていて、気づかぬうちに食は進む。たっぷり2時間かけてフルコースを堪能した。
それから紫禁城に行った。暑くて熱くて、宮廷料理とともに喉に流し込んだタイのタイガー・ビールはまたたくまに蒸気となって失せてしまった。


> たくさん撮った子どもたちの写真から、とりあえず1枚。
- 2006/09/06(水) 21:56:43|
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